本性がなぜ悟りとなるのか?すべての壁や覆いを取り払い、間に何も挟まなければ、本当の本性が姿を現す。それを善悪なしにありのままに観ることによって悟りの道が開かれる。がしかし、ほとんどのひとはそれが出来ていないがために本性が見えないのだ。ウソ、欺瞞、自尊心、制約、誓い、等、人を二元的に縛るものに振り回され自分自身の本性すら忘れてしまったのか?悟りとは個人的な体験であり、ある一部の悟りに至った人の体験である。それがすべての人の悟りに通じるとは限らない。だらこそ受動的にならず、常にこころを開いて能動的に悟りを求める必要があるのだ。だから世の中のみんながおかしくなっていようともひたすら悟りに向かって邁進するしかない。
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2013年3月
2013/03/30 20:43:46
2013/03/20 22:22:58
伝授の血脈を託された。空海とは、稲荷大明神とは、違った伝授の血脈を日本のダキニの五色のお狐さんと共に阿刀田達磨は、この血脈の再興である伝授の新鮮な甦りである乗道地を示すときがいまこのときにやって来たのだ。野干博士となって仇なす外道の撤廃と共に道を切り開く。 2013/03/18 18:56:47
自己解脱の境地は、密教の段階を超えたものだ。少なくともカンドニンティクの言わんとする心髄が理解できれば、空海が体現した即身成仏が体現できるだろう。身だけではなく、口、意も解脱できるのだが、空海は、この身だけと言っているが、身口意の三身が即仏の顕現に変わると体現していたのではないか?自らのリクパを自身で悟ることに意味があり、そこに悟りの乗と道と地が発生し、グル、デバ、ダキニーが顕現する。しかし、外道を保持するものには、その道の尊さや耀きすら観ることは出来ないのだから。/p> |
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