新しく子平を研究する機関で、大学レベルで研究できる空間を提供するようになります。門戸を大きく開いて受講生、研究生を多く募集いたします。その第一歩が占術スクールのカイロンで行う「子平成敗宝珠訣」のワンディセミナーを皮切りにスタートします。皆さまのご参加を心よりお待ちしております。
子平大学 学長 阿刀田 達磨
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五術 六大課
2013/10/02 16:06:18
新しく子平を研究する機関で、大学レベルで研究できる空間を提供するようになります。門戸を大きく開いて受講生、研究生を多く募集いたします。その第一歩が占術スクールのカイロンで行う「子平成敗宝珠訣」のワンディセミナーを皮切りにスタートします。皆さまのご参加を心よりお待ちしております。 子平大学 学長 阿刀田 達磨
2013/10/02 15:43:56
筆者が10年ぶりに書き下ろした「子平成敗宝珠訣」は子平の歴史を塗り替える可能性を秘めている。 PDF版の電子書籍と紙製本版の二種類が選べます。紙製本版には特別付録がつく予定です。書籍のお申込みやお問い合わせの受け付けを開始させていただいております。 阿藤 大昇 2012/10/26 19:21:31
一派の子平の学説だけではただ論争を生むだけでなにも進歩しない。それは過去の歴史が証明している。学派子平は、すべての派閥を超えて子平の統一に向かう。その中では、あらゆる原典の子平やそれを拠り所とする門派の子平は存在に大きな意味を持っていることが解る。一門派の子平は、片目だけですべての真実を語ろうとしている。そのような矛盾を一掃することが学派子平であり、その学派的統一こそが張先生の願いでもある。それは単なる術から学への飛翔なのだからもうすでに占いという枠には収まりきれないはずだ。 2010/09/27 22:30:33
子平の研究 最前線 子平の研究が今密かなブームとなっているようだ。 それは、門派の子平、特に明澄透派の隠されていた秘伝が世に現れてしまったからだ。 その重要な核となったのが、今話題の渦中となっている透派初代が書き残したとされる『子平窮通律』という写本である。 筆者もこの写本の衝撃たる事実を最近知ったのだが。 筆者の子平の古典研究によると徐大昇が残した『子平三命通変』が透派子平大法の秘伝を産んだことは、原典の『子平百章歌』の食神歌に子平大法が引用したとみられる文章(四字成語)が出典されていることからも明らかであるが、透派の先代が書かれたとされる『子平修学無学訣』という書物も『子平百章歌』からの引用が多いことは筆者の研究によって既に明らかとなっている。 しかし、初代の『子平窮通律』は初代が書き残した命譜をはじめて書き記したものであり、その中で論じている干支の合冲の問題や五行の強弱についていままで一般に説かれなかった方法が採用されている。 これは、例外的な特殊な命式において採用すべきであり、すべての命式に適応して行くのは無理があると筆者は考えている。これは無学訣においても適応しなければならないと筆者は考えている。 奇門遁甲においてもいままで『奇門大法』の立座派の奇門遁甲は、一般に公開されることはなく、筆者は、その方法を吟味した結果、かなりの的中率があることを発見した。 これは『皇龍』のこれから出る最新バージョンによってはじめて世に出るといって良いだろう。 2009/05/11 9:40:24
知恵のカッコウ(リクパィ・クジュク) 世界の多様性は、その本性において二元性を越えたものでありながらも、(個体性をもって現象する)その個体性そのものは、心がつくりあげる概念の構成からは自由である。 如実なるものを思考することさえせず、ありのままにまざまざと現われた多様な現象はそれ自身においては絶対的な善なのである。 存在は自ずから成就しているのであるから、努力によって何かをつかみとろうとする心の病気の根を絶って、あらゆるものがそのままで完成状態にある、その中に無努力のままにとどまることが、私の教え。 運命学には二つのカテゴリーがある。 原因の乗 結果の乗 「かくあるもの」とは、概念によって認識しようとすると意識が働く、 社会的・家庭的・個人的・文化的・思想的・宗教的・学術的な要素が概念を構成しようとする。 そのとき、個が全体の中でもっている運命的な多様性を考慮すべきだ。それを否定したり、無視したところにリアリティは存在しない。 個の存在、六大課が示すものは、 個体性(個人)の多様性 ローカル 全体性(世界)の多様性 オール であり、運命というもの、現象というものを捉えようとすると、 かくあるもの、つまり、概念化してものを認識しようとするとき、二元的な見方で捉えようとするのだが、我々の心は、すべての存在や個の存在をまるごと認識することは所詮不可能だ。ただいえることは、すべての源泉は二元性を越えて存在していることだ。 心が作り上げる概念は、思い込みやロジック、システム、テクノロジー的なすべての思考は、かくのごとく現われたすべての現象から自由である。つまり、その現象を束縛することも、支配することも、操作することも、特定するすることも、区切ることも、破壊することも、絶対不可能である。そして言葉で言い表せるものでもない。検索不可能であり、表記、数量化することはできない。 如実なるものを思考することさえせず、とは、対象化されてしまった概念にさえとらわれることがなければ、概念の再構築は、おこなわれることはない。つまり、それすら、越えたところに裸のリアリティは存在するから無思考でなければ、それを体現することができないのだ。現象と概念はどこまでいっても平行線であり、その関係を切り離したとき、始めて真実がみえてくる。これが心と心の本性の違いである。 まざまざと現われた現象は、あるがままに自己顕現したものは、つまり、目の前や夢やリアルに自覚したもの、或いは自分の未来に関することが現われたとき、 善悪を超えて現われている。善悪の価値判断を超えたところでそれは起こっている。しかし、人は善悪、吉凶、順悖といった形でものごとを見る習慣ができてしまっている。 存在そのものが、すでに自然成就しているので、何かをつかみとろうとする努力は、すでに心の病気であり、本性を見誤った行為であるから、あらゆるものがそのままで完成状態にある、その中に無努力のままとどまることが、私の教えと『リクパィ・クジュク』は説いているのである。 リアリティの本性に従ってリアルに生きることこそ、ゾクチェン・セムの教えの心髄であり、無努力、無思考、あるがままといった行為はすべて人間の本性に本来備わったものであり、それが自然に発露したものであり、それが教えであった、といえよう。(つまり、リアリティの本質に迫るために子平も遁甲も使ってよいのだ) そのリアリティの本性は、智慧そのものだからその中にとどまることは、もうすでに解脱を果たしている。なぜなら、存在そのものが自覚した智慧とともにあるからだ。これを土台の透明性ともいい、すでに心は常に、心の本性の中で三昧とともに覚醒している。 『リクパィ・クジュク』の訳文は『セム2号』から引用致しました。 2009/05/07 11:50:27
人間の根源は、三身と五体に集約され、厳密にはこの世に「心」しかない。そしてその心はその三身と五体を顕現されることができる。この三身と五体は、人間の存在そのものであるといえ、三身は、それぞれの存在次元を指し、五体は、存在の構成要素をあらわしている。 人間は常に他に依存して存在している。言い方を変えれば、二元的な見方によって「心」は存在する。 運命学は後者の五体の智慧のあらわれであり、リクパの智慧にあるとき、五大元素は、清浄な智慧に変わる。この五大を五音として捉えた、子平推命は、人間の存在を音、光、光線、つまり、三身と捉え、そのエネルギーが五大と混ざり、個性を生み出すと考えたのである。子平推命は、この五大の力量を計るテクニックをもっており、個人としてあらわれる運命のエネルギーにおける側面を計り占うことを可能としているのだ。 そのとき、仙道が説く、三宝の精・気・神は五大のあらわれの側面であり、この三者は、中国医療の方剤(漢方)・気功・鍼灸に対応している。占いでは、遁甲・六壬・太乙が対応している。 ゆえに、子平漢方術は、子平推命から計量する精神の状態から治療を試みたといえるのだ。そして神の不調和は、鍼灸によって調整し、精神の二つのバランスを取るのが気功治療なのだ。 この精・気・神の三宝は何らかの方法によって変容させることが可能なために仙道では三宝と呼ばれているのである。 これは身体内部や心の問題に有効であるが、人間の外部にあらわれる様々なトラブルには、三式と呼ばれる古代中国の占いよって対応したのである。 社会的な様々なトラブルは、多くは出生ポイントからどの地点を用いたかによって、大きな歪が生じるようである。それを占うのが太乙神数なのである。問題を生じるほとんどの人は太乙における凶方位を突いていることで発生している。反対に社会的に成功している人はまさにこの太乙吉方位を用いているのである。 人事関係は、六壬神課を用いてトラブルを未然に防ぎ、良好な和合時間を用いて、問題を小さくしていくのである。 奇門遁甲は、地の利を預かり、精力や気力こそが、財産、名声、地位を維持できる考えており、それを外部に顕現させることが、奇門遁甲なのである。これはある特定の方位やある形状からその財力や知力の状態を計り、また方位を使用することによってそれを補充していくのである。 このような占いの真実を誰もが顧みることがなかったため現代の占いは秩序を生むどころか、混乱と錯乱を生み出すものに成り下がってしまったのだ。 これは現代における深刻な問題であるともいえよう。運命学は特に原因の乗と結果の乗の二つ側面があり、原因を突きとめる方法とそこからの開放、解脱を説くことが本道であり、誰もが運命学の本道を見失っている。占いは単なる迷信ではなく、どんな占いであれ人間の本質が顕われ出たものに過ぎないのだ。そこに善悪も優劣もない。しかし、智慧の現われで誕生した占いや運命学でなければ、このリアルな現実を乗り越えられない。現実を甘く見てはならない。 そのためには自己顕現を観察するしかない。自分の顕現が智慧による顕現なのか、煩悩から生まれた無明の顕現なのかを明確に区別する必要があるのだ。そこにリアリティの本質が隠されている。それを見出すべきだ。そこに解脱、開放の鍵がある。 2009/04/07 12:25:52
占いは単なるロジックではない。占いを習うのにまず良き師と良書を選ぶべきだ。そして占いを習うのに絶対に公私混同してはならない。師弟関係や弟子同士においてしがらみをつくってはならない。それは法性を汚すことになるからだ。自性を汚してはならない。(そのような場合、ゾクチェンでは、ガナプシャ(施餓鬼供養)や六道浄化を行って問題を小さくするのである。) なぜなら、ゆがめられたもの、妥協されたものに本質は宿らないからだ。一般に出版されているまったく伝統を無視した安易な占いと六大課とは、一線を画するものである。 本だけを信じて勉強するのも真実ではない。どんなに優れたマニュアルもそれを使用する人物によって真価が決まる。品性に添わない者が使えば穢れたものとなる。というよりもその人々が書いたものや発した言葉に真実は宿らないし、本質を語ることはない。なぜなら、真実に達していないからだ。占いはブッダの智慧であり、リクパが見出した智慧であるからだ。マリクパでは到底理解できるものではない。 子平推命や奇門遁甲がなぜ怖いのか?それは人間の本質にかかわっているからだ。あなたは病気の治療に専門家を求め優秀な医師を捜すだろう。占いもまた人徳のある優れた占い師を見出す必要がある。占いはとくに運命学や方位学は、ときに人の命運や将来を左右することがあるからだ。政治家のやるゲームやこどもの遊びではないのだ。人の命運や生死にかかわっているのだ。それをあなたは受け止めるだけの器があるかのみを問えばよい。わずかな判断ミスも命取りであり、すべて自らの責任となり、カルマを積むことになるのだ。徳を積むどころか大きな悪業を為すことになる。リクパに達していないことが原因であるといえよう。マリクパではものの本質が見えないので、どうあがいても、どのような戦略や戦術を講じても無駄であろう。なぜなら、目先の利益や名声を追って大局を見ていない、つまり、真実を見ていないからだ。自分がその器になる決意をしなければならない。それが法であり、教誡だ。 占いを行っていくと(一般の人々にも見受けられる)対象に支配されて風貌が豹変していく人々が多く見受けられる。自分の人相を常に観察すべきだ。心の汚染をすべて投影してしまっているのだ。そのような場合、浄化する必要がある。放置しておくと深刻な問題が生じてくるからだ。 マリクパの思考が生じていないかチェックする必要がある。そのとき、必ず自分でも気がつかないまま五大煩悩が増大している。怒り・驕り・そねみ・貪り・愚かさ、から自分の利益を追って他を排除し、むだなおしゃべりや暴言を吐いたり、優劣に拘り優秀な人々に危害を与え、物惜しみケチや欲張りになり、自分より弱い生命体に危害を与えるようになる。それはすべてマリクパが生み出す幻影に過ぎないのだ。 マリクパはリクパによって破壊しなければならない。五大煩悩とその行為を智慧に還元するのだ。すべては空であることを知ること、すべては平等であること、個別の差異を知ること、果たすべき事を知ること、すべてを写し出す鏡の境地、の智慧から不動心・正しい情報を生む・妨げのない言葉を発し、何もしないまま成り立つ行為をし、変化しない身体を得る。というゾクチェンの境地に達する。古のその昔、人は輝いていて空を飛んでいたという。みな虹の身体を獲得していたのだ。今世紀は、リクパの人類を生み出すことが重要であり、それが筆者の仕事であるといえ、今こそ迷えるすべての衆生を救済するときが来たのである。 これは20数年間、五術六大課を実践して得た結論であり、我が道である。そしてこれが今年度に行う最大のイベントである、赤壁の戦いともいえる、阿藤大昇の「百人斬り」ならぬ「百社斬り」の始動なのだから 2009年 己丑歳 清明 阿藤 大昇 2009/02/22 18:32:00
~劉伯温の子平推命~ はじめに 『滴天髄』は、子平推命の完璧な秘伝書(ウパディシャ)として絶大なる名声を博しているにも拘わらず、その内容の心髄を本当に理解している人は、現代に於いてほんの僅かであることは紛れもない事実である。故張明澄先生の『滴天髄』の注釈が発表されて早、数十年が過ぎ去ってしまったが、その本質を悟った人、もしくはその血脈の伝統を現代に於いて正しく行っている人は果たして何人居るのかたいへん疑問である。門派の掌門は十年に一度この『滴天髄』に注釈し直す伝統があるという。故張明澄先生と筆者が初めてお会いしたときに語ったことがある。筆者が発見した最古のテキストの明代の劉青田、もしくは誠意伯劉伯温の著作とされる『滴天髄』を張明澄先生にお見せしたところ、この『滴天髄』の原典の信頼性と原文の正しさを高く評価していただいたことがあった。この伝統の血脈を絶やすことなく筆者なりの最新の『滴天髄』の注釈を世に出す必要があると想い、前回に発表した『三命奇談滴天髄』のタイトルを新規一転して改め、今現時点における最新の研究成果を土台とした『滴天髄』を世に問う必要があると考えた。劉基は、完全に腐敗してしまった中国の伝統を復興するために努力を惜しまなかったとされている。それもそのはずである。それはすべての人々に向けて「郁離子」というペンネームを用いて本当に腐敗した世を救済しようとした劉基の心髄の結晶であるこの『滴天髄』の本当の意味と価値を本書で紹介しようと筆者は試みた。 明澄透派の子平の源流は、宋代の子平創始者である徐大昇の『子平三命通変』の『百章歌』と本書の原著者である劉伯温の『滴天髄』の原典より派生しており、それを忠実に著わしたのが初代梅素香の『子平大法』や十代目の王文澤の『子平心得』であるが、しかし、それらの子平は、要点の粗大な部分を明らかにしたものであって、術法の大いなる完成状態に達していなかったのである。そしてその伝授の血脈において王文澤が発展させた最先端の子平は、より微細な見解によって理論展開を行ったのであるが、王文澤の『子平参禅(十六通変)』は、『滴天髄』の扶抑理論によって誕生しており、また最終段階の秘伝を説いた『子平修密(無学訣)』は、『滴天髄』の調候理論によって誕生したと言うことができる。しかし、その具体的な内容は子平の伝統的な古典である『百章歌』の格局究明方法に共通点がみられ、また梅素香が『子平大法』で批判した『欄網江』のような子平のように十干を命式の構成要素にあわせて季節ごとに分類して究明していった方法が十二分に発揮されているようだ。子平において扶抑と調候は車輪のようなものであり、どちらがかけても子平の最終的な結論に決して到達することは絶対にないだろう。つまり、扶抑と調候から映し出されるものは、子平が主張する格局と呼ばれる、存在のありのままの本質を投影するものなのである。 明澄透派の子平は、現代に伝授の血脈を完全な姿で世襲しているようであるが、現代においてその意義を問い正す必要があると筆者は考えた。というのもその真意が裏目に出て優れた術法は、時代が下るに従ってマニュアル化されてその真価を大きく見誤ってしまっているケースが多いからだ。伝授の血脈に問題が生じて来たのは、その術法における原典回帰の敬意を払うことを忘れてしまったからではないだろうか。筆者は門派を創ることにまったく興味はない。学問とは、学術とは、すべてに開かれてこそ、すべてを救う教えになるのではないだろうか。すべての秘伝は、劉伯温の『滴天髄』の手の内にある。なぜならすべての秘伝を生み出す土台がこの『滴天髄』の中に蓄蔵していることを新たな執筆によって筆者が改めて認識したことに他ならない。 『滴天髄』は、単に占いのロジックを明らかにしたものではなく、仙道が説く心体を構成する精気神におけるエネルギーの各レベルの質量を測ろうとしたのであるが、その機能を通変によって助気・洩気・奪気・殺気・生気といった具合に分類してその状態を体用・扶抑・損益・衰旺・中和・清濁・真仮・剛柔・順逆・寒暖・燥湿といった概念によって認識しようとしたのである。『滴天髄』で説く「人元用事之神」とは、まさにその気のレベルの微細なエネルギーのありようを説いたものであり、天元は神に、地元は精に対応し、仙道でも説くこの精気神の三寶を読み取ろうとしたのが三命と呼ばれる運命学の全貌なのである。個が対象化したこの三寶と心体(識力)のありようこそが我々が現実に生きている社会・家庭・個人の多様性の側面を映し出しているのである。『滴天髄』とは、まさにそれこそが天の精髄の滴であると主張するものなのである。 本書が子平運命学の学術的発展に何らかの布石となれば幸いであり、明澄透派の神聖なる伝授の血脈の新鮮な完全復活を切望するものである。 2009年 立春 阿藤 大昇 2008/08/09 21:31:18
~中国宋代の徐大昇の子平推命~ はじめに 徐大昇の『子平三命通変』は、中国の歴史の舞台に初めて登場した子平推命の原初の原典であり、中国唐代から宋代の文化的伝統を背景に完成した究極の「子平術」と呼ばれる運命学を書き著したものである。中巻の『百章歌』を始めとする唐宋の詩賦で書かれた『歌訣』には当時の運命的世界観がありありと映し出されており、これを以ってして、本当の中国の子平推命の根源に触れることができる。現代人である我々は、まだ運命という本質に本当の意味で向き合おうとしていなかった。古代中国人は、子平を通じて我々が本来潜在的に持っている運命的可能性を開示して多様な運命のありようを明らかにしようとしている。現代においてこの徐大昇の子平を説くことは、我々の未来に大きな夢を託すことになり、現実を強く生きる知恵と勇気を与えることに他ならない。 2008年 立秋 阿藤 大昇
『子平三命通変三巻』の構成 上巻 注定真論、喜忌編、継善編 中巻 歌訣 下巻 十八格局 2008/06/27 10:54:27
二元的なアプローチによって本質に回帰しようとすることは、人間の本来のありようを如実に示している。 60甲子は、すべての人間が平等に体験するものである。時間と空間が織り成す、還暦とは、人間として60甲子のすべてを経験したことに他ならない。人生の甘きも苦きも共に味わいきったのである。 子平はまさにこの60甲子が人間に与えるありようを示したものに過ぎない。60甲子からなりたつ命運のなりたちによって個における人生の富貴貧賤や禍福が明らかになる。 これは人生における二つの視点から主観を設定しているためである。格局と用神というものを主観として人生を観ると社会的な人生の成功や失敗や富貴貧賤といった概念に支配されてしまう。 しかし、もう一つの人生の絶対的主体(体神)を見出したとき、人は人生で顕れてくるすべての現象の吉凶禍福を超えたところに人生の価値を見出すようになる。つまり、社会的な成功だけが人生ではないし、社会的な価値観に縛られることなく人生を楽しんで行く道を見出す。 これこそが子平が説く絶対的主体というものであり、誰もが絶対破壊不可能な誰もが羨望する絶対的対称性と対面しているのであるが、それに気がつかず満足できなければ、無限の生を費やしたとしても満足することはないだろう。 つまり、悟れないのだ。すでに絶対的主体も絶対的対称性も獲得しているといった見解に立ったとき、本来の自分のあるがままの立場に立ったのだ。そのときにこそ本当の人生のありようがみえてくる。運命学で言うならば、命を悟ったのである。 これは明らかに仏教で説く悟りと寸分の差はない。ただ悟りに向かうアプローチの違いに過ぎない。子平は、時間と空間といったまったく清らかな空なる元素をもとに人間の運命を推しはかろおうとするので、そこには、一切の浄・不浄といった概念は存在しない。 子平は、時代や時間と空間を超えて純粋に真実に人間のありようを示すことができる。子平原典の『百章歌』『滴天髄』は、そこに当世の価値観を顕わにすることで、人間の富貴貧賤と人生の禍福を明らかにしようとしたが、すべての人が、すべての個としてのありようの本性に辿りつくために説かれた教えである。 子平は、すべての人々を悟りに向かわせるための占いといえるだろう。この子平という占いはすでに現代の一般の人々が考えている占いという概念の枠を遥かに超えたものであることを現代人は、新たに認識しなければならないだろう。 だから、子平を行うのに、正しい意図が、つまり、純粋な動機が必要だ。それは真実の自分と対面することであり、そこから純粋に悟るという体験に向き合うことになるからである。 |