占いは単なるロジックではない。占いを習うのにまず良き師と良書を選ぶべきだ。そして占いを習うのに絶対に公私混同してはならない。師弟関係や弟子同士においてしがらみをつくってはならない。それは法性を汚すことになるからだ。自性を汚してはならない。(そのような場合、ゾクチェンでは、ガナプシャ(施餓鬼供養)や六道浄化を行って問題を小さくするのである。)
なぜなら、ゆがめられたもの、妥協されたものに本質は宿らないからだ。一般に出版されているまったく伝統を無視した安易な占いと六大課とは、一線を画するものである。
本だけを信じて勉強するのも真実ではない。どんなに優れたマニュアルもそれを使用する人物によって真価が決まる。品性に添わない者が使えば穢れたものとなる。というよりもその人々が書いたものや発した言葉に真実は宿らないし、本質を語ることはない。なぜなら、真実に達していないからだ。占いはブッダの智慧であり、リクパが見出した智慧であるからだ。マリクパでは到底理解できるものではない。
子平推命や奇門遁甲がなぜ怖いのか?それは人間の本質にかかわっているからだ。あなたは病気の治療に専門家を求め優秀な医師を捜すだろう。占いもまた人徳のある優れた占い師を見出す必要がある。占いはとくに運命学や方位学は、ときに人の命運や将来を左右することがあるからだ。政治家のやるゲームやこどもの遊びではないのだ。人の命運や生死にかかわっているのだ。それをあなたは受け止めるだけの器があるかのみを問えばよい。わずかな判断ミスも命取りであり、すべて自らの責任となり、カルマを積むことになるのだ。徳を積むどころか大きな悪業を為すことになる。リクパに達していないことが原因であるといえよう。マリクパではものの本質が見えないので、どうあがいても、どのような戦略や戦術を講じても無駄であろう。なぜなら、目先の利益や名声を追って大局を見ていない、つまり、真実を見ていないからだ。自分がその器になる決意をしなければならない。それが法であり、教誡だ。
占いを行っていくと(一般の人々にも見受けられる)対象に支配されて風貌が豹変していく人々が多く見受けられる。自分の人相を常に観察すべきだ。心の汚染をすべて投影してしまっているのだ。そのような場合、浄化する必要がある。放置しておくと深刻な問題が生じてくるからだ。
マリクパの思考が生じていないかチェックする必要がある。そのとき、必ず自分でも気がつかないまま五大煩悩が増大している。怒り・驕り・そねみ・貪り・愚かさ、から自分の利益を追って他を排除し、むだなおしゃべりや暴言を吐いたり、優劣に拘り優秀な人々に危害を与え、物惜しみケチや欲張りになり、自分より弱い生命体に危害を与えるようになる。それはすべてマリクパが生み出す幻影に過ぎないのだ。
マリクパはリクパによって破壊しなければならない。五大煩悩とその行為を智慧に還元するのだ。すべては空であることを知ること、すべては平等であること、個別の差異を知ること、果たすべき事を知ること、すべてを写し出す鏡の境地、の智慧から不動心・正しい情報を生む・妨げのない言葉を発し、何もしないまま成り立つ行為をし、変化しない身体を得る。というゾクチェンの境地に達する。古のその昔、人は輝いていて空を飛んでいたという。みな虹の身体を獲得していたのだ。今世紀は、リクパの人類を生み出すことが重要であり、それが筆者の仕事であるといえ、今こそ迷えるすべての衆生を救済するときが来たのである。
これは20数年間、五術六大課を実践して得た結論であり、我が道である。そしてこれが今年度に行う最大のイベントである、赤壁の戦いともいえる、阿藤大昇の「百人斬り」ならぬ「百社斬り」の始動なのだから
2009年 己丑歳 清明 阿藤 大昇