ゾクチェンという教えは、伝統的な教えであり、今でも厳格な血脈によって継承されている。まったく血脈などもたない私などが語る資格などないのかも知れない。しかし、リメー派と呼ばれるゾクチェンの思想家たちは、すべての派閥や門派の開放を行って教えの本質を遍く全世界の衆生に向けて熱心説いた導師は数知れない。本当に新たな時代の幕開けを切望して教えを説いた導師は、教えの伝統をこしらえようなどとは、露ほど想っていなかったはずだ。
思想は教えは常に進化している。なぜなら、混沌と遷移していく、現実は、多様性に富み、ひと時も安住のときなどないのだ。過去の名声や権威に胡坐をかいてはならない。そんなものはひと時の安住に過ぎないからだ。
ただ過ぎ去るときに最も必須な教えを説くべきだ。過去の教えのリニューアルでもよい。埋もれた誰も知らされることがなかった教えや時代によって誰もが省みなかった教えは数知れない。
今こそその教えを説くときが来たのだ。誰も知ることがなかった。いや知らされることも触れることすらできなかった教えが存在するのだ。
それを筆者は説かなければならない。その極みに達してしまったからだ。天は、地は、そして人はそれを求めている。
あらたなる鼓動とそこに集う人々に期待を込めてここに決意を表明する。
あるがままのリアルな本質を見届ければ、すべての現象の幻影は、吹き飛ばされ、あるがままの自分が剥き出しになって輝き出すであろう。それが私がすべての人々に向けて説かなければならない教えなのだから。
そのような埋蔵経典は数知れない。日本において開示されていない埋蔵経典がなんと多いことか。
それを求めなければ誰も何者もそしてどんな生き物であれ悟りを得ることは不可能であると言えよう。
出合った人々は、すべて神仏を自分の外部のものであると対象化して拝んでしまっている。これは本当の仏教はない。崇拝するのは宗教であって、仏教は自己に秘めた仏性を開眼することであって決して神仏を崇拝することではない。その態度は、自らの存在を放棄し、限界概念の中に大いなる自分を閉じ込めて、存在の本当の在りようであるリアリティの本質を完全に見誤っている。なぜなら、それでは何の問題も苦悩も解決に至らないからだ。それは愚かなことだ。
全体性の中で個体性の存在の在りようを見届けることができなければ、個人として生きる意味も、全体における存在価値すら理解することは不可能だ。それは自分の行き場を失うことになる。
そこからの開放を説くことが本当の教えであり、現実の今目前に置かれたテーマを乗り越えていくことこそ、人間が本当に必要とする教えであり、智慧の輝きなのである。