人間の執着をすぐさま断ち切り、煩悩やカルマの障害を克服するには、厳しい戒律を課すのが最も効果的だ。かつてブッダがおこなったような出家が理想的だ。しかし、それは悟りに至るある段階の教えに過ぎず、修行や悟りそのものではない。
人間は肉体があるがゆえに執着してしまう。すべてが二元的な在り方の内に閉じ込められている。これが輪廻であるからだ。それを解き放つには、三昧の境地を悟ったからといってもカルマと煩悩の浄化にかなりの時間と修行が必要となる。最終的には意識を完全浄化しなければ、修行は完成しない。
みな修行の途中であり、自らの三昧を見出して行くほかに道はない。何かをしなければダメだというような見解は、単なる商法行為に過ぎない。そこには何の価値もない。自らのロジックの中に引き入れることで、利益を生む方法が商法であるからだ。しかし、それが真実の教えであれば、まったく話が違ってくる。反対に真実の教えであるように振舞うことで、意識を支配しようとするのが、宗教の正体だ。それは真理という概念の中に縛られている。
人は生きているのではなく、ほとんどの人々が何かを依存して生かされているようだ。そこから離脱するためには、受容も拒絶も不要だ。あるがままの自分に立ち返る意外にその方法はない。つまり、二元的な方法によってそれを解決することはできない。二元的な立場で存在していると考えている以上そこからの解脱は不可能だ。まずその見解から離脱しなければならない。
悪も善もその人が選んだ状況によって等しく顕現している。どちらを選んで生きたとしても輪廻の中にいる限り、結果は等しく同じだ。善を為すことや悪を為すことが問題ではなく、その人の心がそれを正しく判断できているかというのが本当の知恵である。
知恵がないから人は挫折し失敗する。知恵を持って行為することこそ、それ以上の行為はない。それでも失敗するとしたらそれは乗り越えられない運命やカルマであるからだ。その知恵を輝かす教えこそ無上の教えであり、すべての限界を乗り越える無上最上の教えなのである。
心とは、常に現象と一致して顕われてくる。事の善悪や美醜に関係なく、すべては心が生み出している。人間は勝手にその対象を固定概念によってそれを掴み取ろうとする。しかし、心はそんなもので掴むことも支配することもできない。思考の構築物は幻影であり、心が投影したものに過ぎない。そこに人は意味を論じようとするが、それは煩悩を生み出す基になるだけだ。もともと意味ある行為などはなく、すべての行為の善悪という概念すら消え果たところに精髄である光明が存在する。
意味があるとか意味がないということを棄て去ったとき、中庸の真実が浮かび上がってくる。中庸を強調した教えや真理を強調した教えに意味はない。知恵とは、知識や思考を弄くり回すことではなく、ありのままの現象を素直に受け入れることだ。対称に酔ってしまったとしてもその対象に支配されることはない。ただお互いのカルマや思考が戯れているだけで、恋愛も思考が生み出した幻影であり、酔いが醒めたとき、陶酔が幻影であったことに誰もがきずく。しかし、それを素直に楽しめば何の存念の痕跡を残すことはない。
心こそがすべてを生み出す王であると知るならば、それを対称化したところに神が存在する。しかし、その心すら思考の構築物であり、その神も幻影に過ぎない。その神を信じることは、幻影が幻影を崇拝しているようなものであり、すべてが錯誤に当たる。
つまり、見解を持たないことが見解であり、執着に落ち着く場所などない。心は執着の居場所を求めて彷徨い続けている。しかし、生み出されてくるものはどんなものであれ等しく空である。だから執着不能なところに執着するのである。そこには何の局所性もなく、心の落ち着く場所もない。常に心がふらふらして定まらないのは、リクパと意識が一致していないからだ。だからこそ『金翅鳥タントラ』のように執着不能なところで励むのだ。
自然の生き物はすべてあるがままに生きているが、人間だけが自然と調和せずに心が勝手に自然を弄くり回している。人間だけがあるがままに生きていないことがすべて我々の目の前で生起している様々な問題を産み出している。だからといって人類がみんな原始人に回帰しろというのではなく、自然と調和した生き方に回帰すればよいのだ。それは五術六大課を基とした生き方にも通じる生き方ともいえよう。
ブッダは、すべての教えを転覆したのではない。すべての教えを解体して、争うことなく、すべての存在をニルバーナに導く教えを説いたのだ。それこそがブッダの説いた真理の教えだ。
ニルバーナを達成していない者にニルバーナとは何かと質問することは無意味だ。それと同じくすべての教えを転覆したナーガールジュナの教えも大きな意味を持たなくなる。
仏足頂礼は、ブッダに対する尊敬の念に過ぎない。それを解脱や悟りに結びつけることは、自分の本性を穢してしまうことなのだ。
時間と空間を超えて顕現してきたものを人は、それを拒絶することも受容することすらできない。それは真実のありようを顕わにしているからだ。
いま本当に必要な教えを保持し、実践すればよい。それ以外の教えは、何の効力を持たないだろう。しかし、教えの概観と効用を知っていなければ、それは手探りで解脱を求めている妄人と同じだ。
「九流三教」という言葉は、現代の宗教のありようを如実に示している。いったい何を信じていけばよいのか。五術六大課とは、まさにどんな時代やどんな空間やどんな場所にあろうが、真実の自分を顕わにする道しるべとなる。
伝統がまったくない、つまり、見せかけだけの教えがまかり通り、世を動かしてしまったことが、多くの問題を作り出している。反対に伝統があるのに、まったく伝統の本質を伝えることなく、民衆を解脱のいつわりへと導いた宗教者たちも存在する。
本当の解脱と概念で作り上げた空論の間には何の関係も接点もない。それは解脱の境地にあるとき、すべては明らかになる。
ブッダの説いた四諦八正道(三十七菩提分法)の教えをいくら概念化しても真実に辿りつくものではない。それはブッダの直接体験から生み出されたものであり、その体験を実現するためには、あらゆる努力と工夫が必要だ。ただ原典を読み解いているだけでは何にもならない。
ゾクチェンの教えは、明らかにブッダの教えを成長させ、三昧と解脱を完全なる教えの土台としているので、伝統の血脈を世襲しているといえる。なぜ原典のアーガマだけに固執して修行する必要があろうか。当時と何ら変わらないやりかたでは、何も意味はない。なぜなら、そのブッダは、いまここにいないのだから。
教えや修行のコレクションを作ることに何の意味はない。確信となる教えのみを説くべきだ。教えは人を真実の悟りに向かわせるものであり、人を教えに縛り付けるものは、明らかに道を踏み外すものだ。
教えを説くものが、教えの本質に達していなければ、それはどんな教えであっても人生を生かすものにはならないし、それは一時期だけの人気の集まる教えに過ぎない。
抽象的・象徴的・直接的な教え
仏教の教えや宗派というものを成り立たせているのは、仏教というものを対象化した教えと考えてしまったからだ。つまり、思考によって概念化された教えであるといってよいだろう。だから顕教・密教・ゾクチェンといった宗教がさもあるように想ってしまう。さらに密教には、外タントラ・内タントラ・不二タントラがあり、それに対応する伝統と宗派が存在する。修行の段階もすべて修行しなければならないようにみえる。これはすべて対象化されて分類された教えである。
顕教は、明らかに抽象的な教えであり、教科書で学んだように仏教を学習する段階だ。経・律・論のつまり、三蔵を学び、南華密教『西遊記』では、経典研鑽者に区別される。概念によって仏教を構築して行くので、外部に顕われた現象を説明するのが精一杯なため最終的に身体的な戒律や倫理的な教訓を重んじる教えとなってしまった。この段階の修行者は、抽象的ではない教えすら抽象的に解釈してしまおうとすることだ。そこには実際に体験したことと無関係な議論が展開していくだけだ。現代科学やすべての学問は、このような技法が用いられており、すべてを概念化しないと気がすまないようだ。その結果、論争に明け暮れる毎日となる。
密教は、象徴的な教えであり、呼吸にともなったエネルギーにも関係している。神経医学にも関連しており、特に金剛と金剛鈴が象徴として用いられる。金剛は、輪廻と涅槃を象徴するもので、それ以上の何ものでもない。密教は不浄な顕現を清浄な顕現に変容するので、変化の道と呼ばれている。南華密教では、功夫の修行者に区別され、エネルギーに関する修行が中心となり、漸進的に段階を踏んで三昧の境地に辿りつく方法が説かれている。ある宗派では、象徴的なものにエネルギーを付入して悟りを得るというような可笑しな教えがある。仏教的象徴の仏像や仏舎利塔にエネルギーを付入して神仏を対象化して祈る人々がいる。これは神仏を自分の外にあると対象化して自分より優れた存在であると考えて、その対象に自分を浄化してもらうという外タントラのクリアタントラと呼ばれる浄化の道だ。クリアタントラはそこから高度なタントラに取り組んでいく課程のタントラに過ぎないし、外タントラの入り口に過ぎないのだ。外タントラは苦行によって三昧(リクパ)を悟っていく道なので、現代人の一般の人々が修行するには、非常に制約の多い修行法だ。外タントラで三昧を見出すことができたとしても、それによって煩悩や死を乗り越えて行くことはできない。なぜなら外タントラの他になぜ内タントラや不二タントラがあるのかを知らなければならない。密教はそういった意味では、本尊を対象化して祈祷を行うので、西洋の宗教や日本の神道、中国の道教のように祈るという立場から見れば共通しているといえよう。
ゾクチェンは、直接三昧の境地に入っていくので、直接的な教えである。口頭・象徴・直接(セムデ・ロンデ・メンガギデ)の三種の伝授によって師が悟っている三昧の境地である原初の境地を伝授していくのである。この存在の土台とも呼ばれるリクパという境地を見出せなければゾクチェンの修行は何も出発しない。そうでなければ思い込みの概念化した三昧の境地であって幻想を追った自己解脱に酔いしれているだけに過ぎない。人間の意のレベルは非常に微細なもので、他人からはそれを理解できない。まさに身口意の意は秘密の存在なのである。だからグルヨーガが一番重要なのだ。師が悟ったリクパを頼りに弟子は自分のリクパを見出していくしかないのだ。南華密教では、「カギュ派の六法」つまり、内火・幻身・修夢・光明・中陰・転移がゾクチェンの修行段階に相応するものである。
本当の教えを説く仏教者ならば南華密教『西遊記』の三蔵・悟空・八戒・和尚の4つの道である仏教的な限界に閉じ込められることなく教えを伝達して普及すべきだ。三蔵は経典研鑽者なので、体験とは無関係な机上の空論の見解である限り、現実的な問題に直接効果はない。悟空の功夫の修行者は、様々な修行体験を積んでいるので、現実を乗り越える術を手にしている。これは五術六大課もこの範疇に入るといえよう。しかし、空を悟った悟空にも乗り越えられない限界がある。それは概念の空論に閉じ込められているからだ。悟浄は、戒律支持者であり、戒律も度が過ぎると人生に害を与える場合がある。それは人生において誰もが大切で必要な体験を戒律のためにそれを拒絶したまま人生を終わらせてしまう場合あることだ。和尚は寺院布教者であり、経営や営業によって布教していくので、企業や商店と間違えてしまう部分が多分にある。和尚は伝統的な仏教の伝統文化に縛られているので、現代に誤った形で仏教を説いてしまう場合がある。伝統文化と教えを混同して教えてしまう宗教者は以外に多い。それは時代錯誤も甚だしく現代にまったく役に立たない仏教的伝統を一部の愛好者に提供しているに過ぎない。宗教団体は、この和尚の段階が肥大化したものといえよう。人間は確かに社会的責任が取れれば、何をしても構わないだろう。しかし、自分のやっていることがどういう結果を産むのかも解からずに突進してしまうことがある。知恵と覚醒と自覚を保っていないからだ。それは大きな団体になればなるほど社会的影響力が大きくなる。そういった場合、個人が行った責任も個人ではまったく責任が取れないような段階に成長してしまうことがある。そういう場合果たして宗教的リーダーは信者が行ったことに対して責任がどこまで取れるのか真剣に考えたことがあるのだろうか。そこで行われていることは、すでに宗教が本来行おうとしているテーマと食い違っている。悟りの世界において徒党を組んでなすべきことなど世の中に何も存在しないし、得るべきものなど何もない。
問題は仏教者だからといって真実の仏教が説けるとは限らないし、仏教者とはまったく関係のない人が実は仏教の確信に迫る教えを説くこともあり得るからだ。仏教で一番大切なのは、宗派や国籍に関係なく、人間の原初の境地である三昧の境地に引き戻すことであり、それ以外のことは、人生において究極的には、本当に自分を救うことにはならないからだ。
第一章
宗教することなしに宗教することはどういうことだろう。まず、どれそれといった宗派に所属する必要はない。もちろん改宗する必要もない。仏教徒であるとかボン教徒であるとかと考えることすら意味はないし、どの人種で、どの国籍で、どの惑星の出身なのかを問う必要もない。何時の時代の教えで、どこの国の教えで、どの伝統のどの血脈にある教えであるかということを論じることすら無意味だ。この教えには時間も空間も場所的局所性による一切の制約や限界はない。
あらゆる宗教行為はそこにはなく、見解すらも尽き果てて、実習不可能であり、宗教概念は倒壊を起こし、常識すら倒壊するので、あらゆる限界概念(戯論)はもうそこには跡形もない。すべての教えが解体したとき、ただその跡に残るのは、教えのエッセンスのみである。この教えのエッセンスのエッセンスである精髄に常に留まろうとするのだ。人はそれを菩提心と呼ぶ。
何ものにも執着しないその精髄である菩提心は、大空を飛ぶ金翅鳥のように拡大も収縮もなく、すでに何もない空間に溶け込んでいる。何ものも求めず、何の意図もなく、何の働きかけもなく、何ものも決定することもない、広大無辺の中に、ただあるがままにある。
戒律も苦行もすべて尽き果てて、何も修習しないその菩提心の精髄は、すでに完成を遂げており、努力して行う特別な真実などはない。顕現してくるものは、等しく完全に成就している。与えていないのにすでに与えられているので、敢てなすべき行為すらない。何も受け取ることもなく、何も保持するものはなく、棄て去るものなど何もない、ただ如実にあるがままにある。
その如実にすら留まることがないなら最高の仏説にも留まる可能性もない。最高の仏説が説かれたことがないのなら最高の原初的知性はどこにも説かれる可能性はない。しかし、原初的知性は、おのずと遍在しており、すべてのものとすでに堅くつながれている。結びつけることも解く必要もない始原よりあり続けている。それを人は明知(心の本性)と呼ぶけれど、それを求めたものたちには、すでにその明知と教えは存在しない。
その心の本性には否定的な部分も変容すべき穢れもない、透明な輝きがそこにあるだけだ。等しく人間の本質も同じようなものであり、何ものもそれを破壊することはできない。それに達した人は、恐れることも喜ぶこともなく、等しく空を体験する。これを絶対的主体と呼ぶけれど、それによって何を得ることもなく、すべてがただ透明な光明の輝きの中にある。
鏡のように現れた対象に執着せず、映し出されたものは、あるがままの自分をただ如実に示している。穢れているとか浄化しているということに意味はない。主体も客体も対象性も対群性もない。それを非対称性と呼ぶけれど、原初より清浄な土台は常に透明に輝いている。すべてを平等に見る蓮華王のように非対称世界を生きるという体験をすることで、対象世界も法性として顕現するから真実の絶対的対称性を獲得する。これは揺るぎない運命の確信なるものである。
その大いなる三昧の境地に常に留まろうとするのが聖仙というものである。原初より為すべきことはなく、煩悩は尽き果てて、原初の知性は顕わになる。二元的な見解は尽き果てて、輪廻も涅槃もない永久の世界に旅立つ。それを虹の身体と呼ぶけれど、あらゆる存在を尊重し、慈しみ、すべての存在を等しく救っている。人はそれを仏身と呼ぶ。
ゾクチェンのロンデとトゥゲルの修行を夢の中で行うのだ。夢の中なら限界に縛られることはない。理想の恋愛も実現しなかった結婚も成就する。出家できなかった人は夢で出家すればよい。現実に人間は、煩悩と、カルマの薫習と、意識が錯誤する知恵の障害と、肉体とに雁字搦めに縛られている。しかし、三昧と自然の光明の三昧には如何なるものもない。だからすべての束縛は自然に解放する。それこそ自然解脱であり、自己解脱だ。それゆえにその三昧の境地に留まり続ける必要があるのだ。ロンデとテクチューとトゥゲルによって意識は完全に浄化され、執着は自然に消滅していく。煩悩は無害となって知恵となり、知恵は現実を力強く生きてゆく友となる。
第一章、存在の土台のありようと、あるがままの行為と、到達すべき要点によって保持する教えの解体を説く。すべてのグルとダーキニーと護法尊とすべての人々とすべての存在するものたちを尊重し、この教えを回向として捧げる。
第二章
順序を追って悟っていく段階の修行には、多くの障害がつきまとう。悟りとはそのような過程によって悟るものではないからだ。本質は密教の外タントラのように上下・対等・同一といった二元的な立場からけっして辿りつけるものではない。まして自分の本質を外部に対象化し神格化した象徴的なものに祈願したり、供養して浄化を求めることは、明らかに本質を顛倒している見方だ。
我々は誤った観点から人生を見ている。本質は今おかれている状態がどのような立場にあり、今本当に為すべきことは何か、あるがままの本質にあれば、自ずと道は開ける。浄化とは、不浄な対象を取り除いたり、変化させることではない。あるがままの境地にあるがゆえにすべては清浄な土台の内に浄化するのである。そもそも対象に浄・不浄といった概念はない。
努力しても道は閉ざされ、行き場を失い、苦しみは減るどころかますます増大していくだけだ。執着とネガティブな意識に支配されて知恵は煩悩によって曇らされる。本質を見失って本来の透明な輝きを失っていく。断ち切るべきは煩悩であるとしゃにむに努力しても煩悩は減るどころかますます成長する。苦行とは、完全にあるがままの自分を否定して、いきなり身・口・意の限界を破壊して欲求を否定しようとする。そして外部に現れたエネルギーについても無知なまま、自然の限界にも戦いを挑もうとする。しかし、それはブッタですら無理な相談だった。煩悩のありようを、外部のエネルギーのありようをまったく理解していないからだ。
苦行によって明知を悟る道には、多くの障害がある。一番の要因は過度の努力を強いているからだ。煩悩を無毒化するには、三昧の境地を維持していくよりほかに方法はない。一瞬三昧に入ったからといってもそれでは、煩悩に対して何の特効薬にはならないのだ。
密教の段階では、煩悩を知恵に変えることはできても、無限に派生する煩悩をすべて知恵に変えることには限界がある。なぜなら二元的な見方によって浄化しようとするからだ。不浄な顕現を清浄な顕現に変えようと常に意識してしまっているのである。まして現実の人々はそのような状況の中で増大していく煩悩を知恵に変えることは不可能だ。密教にも限界があることを知らねばならない。すべては対象に支配されているからだ。その原因は人間が内部に本来持っている執着から来ている。つまり、それが煩悩の正体なのである。
密教の後に出現したゾクチェンは、密教とはまったく違った方法で、煩悩にアプローチして無毒化していく。つまり、密教の持っていた欠点を見事に克服したといってよいだろう。しかし、心の本性である明知を見出すことができなければ、ゾクチェンの修行は何も出発しない。その為には師からの伝授が不可欠だ。師の伝授の血脈なくしては、ゾクチェンの修行は不可能だ。師を求めずに暗黙のまま修行する人は多い。だがそれでは一生の生涯を費やしても真実の悟りに辿りつけないだろう。
第二章、煩悩のありようと、外タントラの教えと、ゾクチェンの教えを説く。
第三章
運命の確信を得るということはゾクチェンの段階ではロンデにおける「疑いがない境地に留まる」ということになる。まさに真実の運命学が行っている自己観察こそが見解なのである。二元的な見解を超えられないことが、すべての解脱を阻む原因や障害になっているのだ。
そのためにメンガギデの教えでは、トゥゲルとヤンティーの修行を行って徹底的に二元的な見解を開放していくのである。明らかにテクチューの教えの段階を超越しているので、ボン教のゾクチェンの教えでは、テクチューの教えは漸進的な教えで、トゥゲルは空を飛んで行くようなものだというほど修行のレベルに格差があるのだ。だからトゥゲルの修行は飛び立つ時期とタイミングを選ばないといけないのだ。
テクチューの修行を完成させたということは、完全にすべてを棄て去って飛び立つ準備の確信と確証を本当に得たから、トゥゲルの修行を行えるのである。つまり、それは死を決意した瞬間でもあり、それを誰も決めることはできない。本人が飛び立つ決心をするか否かの問題である。テクチューの修行のときもそうだ。心の本性に留まり続けるという揺らぎない確固たる決断がなければ、テクチューの修行は出発しない。つまり、トゥゲルは死の体験をすることなく、死を体験する教えといえるだろう。トゥゲルは人間の死を超えてしまう教えだ。
ゾクチェンは本来人間がもともと不可能であることを実現しようとしているのだ。しかし、人間にはどのような存在にもなれる法身と呼ばれるダルマカーヤを持っているのだ。さらには、完璧な理想を実現できる富みの身体である報身と呼ばれるサンボーガカーヤも持っているのだ。飛び立つ決意をすることだ。その絶対的な確信によってどんな状態や状況にあろうと必ず解脱できる。それこそがゾクチェンの本当の真髄であるからだ。確信を持った心こそがすべてを解脱させるキーワードであり、大いなる原初の知恵を発現させることも不可能ではない。
三身を成就することがゾクチェンの到達点であり、しかもそれを維持して行く方法を持っている。そしてすべての存在を遍く平等に救っていける存在である。それ以上の存在がこの世に出現していることなど、あり得ないことだ。しかし、ゾクチェンの教えはそれを可能にしているのだ。その揺るぎない絶対的確信によって仏性に到達しない存在など絶対にあり得ない。すべては、完全成仏、完全解脱している確信を心の本性において完璧な自己解脱を自然解脱を、すべてがすでにあるがままに成就しているという確信を、完璧な認識を超えて完全に理解した人こそ、本当のブッタとなった存在であり、そのような概念すらブッタにはすでにない。完全に存在の彼岸にあるからだ。
第三章、ゾクチェンのメンガギデのテクチューとトゥゲルの修行の真髄の考察を説いた。
第四章
ゾクチェンという教えの伝統にも縛られることなく、虹の身体の伝統を生み出す教えを説くべきだ。法身・報身・化身のブッダの三身を顕現させるのだ。すべての教えの血脈は、人を救うためにあり、すべてが平等で平和な社会を築き上げるためのものだ。
社会は、すべてそのように動き始めているのだ。真実の教えしか人類の迷える存在を本質的に救うことはできないのである。人類は明らかに精神的に進歩している。人はもともと古代から現代において無限の可能性を秘めている。理想郷を説いたシャンバラ伝説や古代中国の歴史を紐解いた『推背図』が説く、すべてが平等な世界は、どんな時代にあってもすでに実現していたのである。しかし、平等な世界にあることを見誤った心ない人々が次々と問題を産み出していたに過ぎなかったのだ。
それゆえに、何ものにも惑わされることなく、自己解脱の道を、自己完成への道を突き進めばよいのだ。社会において宗教的になすべき行為など何もなかったのだ。すべてはあるがままにあるのだから、自分の人生を宗教や宗教以外の何かに制約されて自分の可能性を閉じ込めるようなことは、なくさなければならない。ただあるがままに生きて行けばよいのだ。それ以上の教えは、この世の中には存在しないだろう。それが宗教することなしに宗教せよと説く、教えの本質だ。
だがそれすら狭苦しい考え方だ。ゾクチェンのセムデの教えをお説きになる法身のクンツサンポの立場から見れば、限界概念の中にあるといってよいだろう。どのような表現であれ、今おかれた人間を本当に真実に救えるのは、時間と空間を越えた五術六大課、つまり、般若の知恵しかないというのが見解だ。すべてのありようを見直して、それを乗り越えていくしかない。地球にあるゾクチェンだけに執着する必要はないだろう。13星系にあるゾクチェンの教えも本質的には、何もかわらないだろう。伝えるべきは、ただ一つのことである。その本質を悟るための努力は精一杯すべきだ。それこそが、無努力の教えの真髄となるものである。
だから宗教やその他の教えに縛られてはならない。あるがままの自分の原初的知性に従って金翅鳥が大空をはばたくように執着せず、蓮華王のように平等な態度で、ライオンのように力強く、人間として清らかに品性を持って優雅なまま、あるがままに生きて行けばよいのだ。
ゾクチェンの教えにすら留まる必要はない。しかし、それは、ゾクチェンの教えを否定することではなく、ゾクチェンの教えの説く、概念の殻を打ち破り、すべてはあるがままの本質に到達するために究極の教えへと進化してもよいのだ。それをゾクチェンと呼ぼうが、何と呼ぼうが、それはすべての教えの到達点だ。
第四章、すべてはあるがままに本当に完成していることと、教えに縛られてはいけないことと、すべての限界概念を断ち切ることを説く。
第五章
教えの伝統には、すばらしいものがあるが、それにすら固執してはならない。自由な発想のもとに今この時にこそ必要な心の精髄である真実の教えを生み出していくことだ。これはどんな教えにもいえることだが、今のこの時代のこの時のこの場所にしか出現しない教えがあるのだ。
それを五術六大課と呼ぼうが、ゾクチェンと呼ぼうが、何と呼ぼうが、未来の人々を救う教えに他ならない。時間と空間と地点を超えてその教えは、現代に出現してくる。そのようなありようこそ、普遍的で、不変の原初的知性の戯れといえるだろう。
すべてはあるがままに完成しているというのは、いま目の前で生起しているすべての物事には、善悪や美醜に関係なく、ありのままを映し出しており、あるがままの自分を越えて出現しているものなど何もないのだ。だからその存在にあるがままに留まることこそ、本当の自分のあるがままのありようを、真実の自分のありようを悟り理解した存在といえるだろう。
人生において本来乗り越えるべきものなど何もなかったのである。ただそのとき、その現象に執着してそれを乗り越えようとしただけに過ぎなかったのだ。受容も拒絶もない、すべてはあるがままに広大な大河のように流れており、ただその流れに逆らって生きていたのだ。しかし、その流れに従って生きていく必要すらない。それは当人の自由なのだから、だが自分のやったことに対して責任を取る必要はある。
人生において何を成しても構わない。その責任を取れる範囲で、物事を行うべきだ。できないものや責任が取れないことをすべきではない。もしそれが本当にできない者のために戒律や法律があるのだ。戒律は人間を成長させるためにあり、人間を堕落させるものではない。もし人間が堕落に向かって行くような戒律ならば、保持する必要はなく放棄すべきだ。
自分のやっていることが、どういう結果を生むのか解からずに突き進んでしまうことがある。煩悩に支配されているからだ。それは五術六大課でも理解することができる。しかし、それを理解していないということは、どんなに社会的地位や名誉や財産や品格があったとしても相変わらず無知で知恵がない。つまり、無明(マリクパ)であるからだ。
問題は人間として成長や完成に向かって生きているかということだけ論じればよい。成功や完成に向かわず、堕落や絶望に向かって生きて行ってはならない。良い意味でも悪い意味でも周りの人々を巻き込んでしまうからだ。それは自分をいつわり、可能性を放棄しているのに他ならない。その行為は当人の原初的知性すらも汚してしまっているのだ。
そのような生き方やそのような教えは、必ず限界に達して滅びて行くだろう。人間の成功も失敗も不幸も幸福もすべて平等であり、どのような状況にあったとしても人間の本質を見失わないことだ。すべては空である悟りの確信とあるがままで完成しているのだから何ものにも惑わされることなく、真実の道を歩みなさい。幻術師が作り出した幻影に惑わされることなく、二元的な道を説く六師外道や世俗八法を説く教えを乗り越えて、究極の果を得なさい。そうブッタは時空を超えてそれを説いているのである。
第五章、教えのありようと、責任を取ることと、究極の果を得る教えを説く。
第六章
人間の身・口・意は、ひどい制約を受けている。あらゆるものに縛られているからだ。これはしてはいけません。あれはしてはいけません。と幼いころから徹底的に自分を二元的な立場に押し込んで、無理に心を縛ってきたのである。
その歪みが極度に現れると異常な顕現や病気を発生する。意識に強く働くと精神病に発展し、口のレベルのエネルギーに強く働くと言語障害などの六感に異常が生じ、身体に強く働くと治療不可能な病気が発症する。これは内的な現象だが、外部に働くと家庭不和とか社会における様々な問題となって現れてくる。
すべての秩序は、内外ともにバラバラに破壊されていく。そもそも身口意を調和する方法など社会はまったく考えないままその問題をなおざりにしてきたのだ。それを解明する医学も宗教も政治すらもそれを発見することができなかったのだ。外部に起きた現象に対応するのが精一杯で、内部のものまで考えが及ばなかったのである。
確信に迫る教えも医学も出現しなかった。それを発見しえなかったのは、人間の本質を悟っていないからだ。現代の政治は多くの犠牲者を生み出している。古代中国の政治は、如何に人を殺さないで政治を行うかがテーマであったのだ。それは人間の真実のありようを誰も見届けられなかったためである。雄大な時代と無限の時間の中で、ただブッダだけがその真実を一時悟ったのに過ぎなかったのではないだろうか。
どのようなレベルの嗜好物を使って自分が作り出したストレスを開放しようとするのは、誰もが狭苦しい人生を歩んでいるからだ。それを否定することからも肯定することからも離脱すべきだ。現実を実体のあるものだと信じているからこそ問題が生起してくるのだ。
ブッダが説いた空の悟りの確信があれば、すなわち夢の中であれば、それは幻影や幻想であると理解できるはずだ。それを理解できないということは、極度の執着があるからだ。それは見解によるものであるかもしれない。カルマの薫習であるかもしれない。煩悩によって受容と拒絶しているのかもしれない。
ゾクチェンの教えは、人間を内部から解き放っていく教えであり、外部から解き放っていく教えではない。現代の人間はあるがままの身口意のありようを特質をまったく理解していない。その可能性すら否定している。ゾクチェンの教えは、それを、内部より目覚めさせることによって身口意を制御しようとするのだ。身口意を三昧に統合して、生起する問題を根本的な立場に立って統合しようとするのである。
第六章、身口意のありようと、カルマと心の浄化と、内部から目覚めさせることを説く。
第七章
問題を解決することは、戦うことではない。戦いは問題を解決するどころか、憎しみを増大させていくだけだ。物事を対象化したところには、受容と拒絶しかない。すべての問題に対して戦いを挑む人は多い。しかし、それも自分の本性が写し出したものに過ぎないのだ。不可視のものやまったく制御不能なものに対してまで、そのエネルギーと戦おうとする。だがそれは無謀であり、無知である。
概念化したものは、そこにはないものまで、さも現実にあるかのように心は顕現させてしまう。もうまったく影響を受けなくなったものにすら、影響を受けていると想ってしまう。心とは非常に恐ろしいものだ。ないものをあるとしてしまう一連の心の作用は、明らかに思考の構築物であり、意味のないものだ。
煩悩もそれと同じだ。怒りが成長して行くと憎しみや憎悪になってしまう。そしてそれを実現しようとどんな対象物であろうが、その怒りをぶつけてしまうのだ。まったく本来の意志に関係のない行動をしてしまう。つまり、煩悩によって狂ってしまったのだ。煩悩に支配されて見境もなく突進してしまったのだ。
煩悩が意識に働くと、意識の錯誤が起きる。
煩悩がエネルギーに働くと、エネルギーの不調和が起きる。
煩悩が身体に働くと、病気が発症する。
宗教的な指導者ならばそこに大義名分を付け加えようとする。しかし、それはまったく意味のない行為だ。リーダーの思考の構築物に過ぎない。問題なのは、その教えを何も判断しないで、素直に受け取ることである。その教えの正邪を見破れないとしたら、どんな人生を歩んでいても危険の渦中にいる。ブッダの説く知恵とは、そのような危険を察知する能力であり、それを乗り越えて行く教えでもある。
無用なものなどなく、今起きている問題を批判するよりも、どうすべきかを説くことこそ、優先すべきだ。今為すことは、玉石を見極めることであり、現実を直視すべきで今顕現している物事に大きな意味がある。そのすべてのありようを、意味のすべてを、三昧に統合すべきだ。
それ以上のもの、至高、究極、無上を説いたものに人は出合ったとき、それ以上のものを敢えて追うことはなくなる。つまり、それ以上の頂上がない地点に行き着いたのだ。どこに行き着いたのか、それこそが彼岸だ。ニルバーナと呼ばれる境地だ。それ以上の行為を成すべきことのない境地としてあるがままに完成している境地である。すべての到達点であり、到達するという概念はもうそこには存在しないのである。
第七章、問題の解決のありようと、煩悩の成長と結果と、そこからの離脱を説く。
阿羅漢・菩薩・如来とは?
人はカルマと呼ばれる意志・行為・満足の三つのサイクルを繰り返しながら生きている。この意志決定の段階で、我々はカルマの薫習やネガティブな意識の穢れによってもともと意識が錯誤を来たしており、煩悩を育てて行く方向に生きている。ほとんどの人が煩悩によって気が散ったまま生きている。煩悩は完全に人の知恵を曇らせている。人はさらに肉体にも縛られている。常軌を逸した行動は、明らかに活動の根本にいつも煩悩が潜んでいる。人を突き動かしているのは煩悩であり、すべては煩悩によって人は生かされている。煩悩とカルマこそが人間の存在理由だ。煩悩が産み出したものが成長して行ったとき、始めて目に見える形で、人々に害を成すものや人々を救済するものとなる。
それを仏教では、煩悩は苦しみの原因をなすものであり、害となるものであると説く。ゆえに原始仏教でブッダは、煩悩を放棄する道を説いた。密教では、煩悩を知恵に変えるエネルギーの知識を基盤とする変容の道を説いた。しかし、煩悩が無害となって知恵になる教えがある。煩悩に支配されることなく、反対にそれを支配し無毒化する教えが存在する。これこそが本来の仏教の姿であり、ゾクチェンと呼ばれる自然解脱、自己解脱を説く教えだ。そして人間の持つ身・口・意のレベルに対応しながら原始仏教は身体のレベルに対しての煩悩のありようを説き、密教は口レベルであるエネルギーに対しての煩悩のありようを説き、ゾクチェンは意識のレベルにおける煩悩のありようを説いているのだ。
人間の根源的な苦しみの原因である煩悩とどう向き合うか、どう対治していくかを説くことがブッタのテーマであり、釈迦もブッタもそれを実現したことで人間という存在の限界を乗り越えたのである。それが仏教のすべての到達点であるといえるだろう。よく仏教的象徴に用いられる阿羅漢・菩薩・如来・仏身の本当の意味とは、我々の心から遠く隔たった非日常的な存在ではなく、我々が本来持っている心の状態を示したものだったのである。我々の意識は、カルマの薫習やネガティブな意識によって歪められ、ただ一時的に曇らされていたに過ぎなかったのだ。
阿羅漢とは、三昧の境地を確実のものとして完全に自らの煩悩とカルマを克服した存在であり、完全に空の悟りの確信に達した存在であり、存在の土台をあますところなく知り尽くした存在である。このような存在を仏教では聖者と呼ぶのである。
菩薩は、対象世界を戒律のよって行為するのではなく、原初的知性によって行為していくので、一切の制約や限界がない。自他の煩悩すら行為において無毒化していく存在であるのですべての生き物を等しく救うことができる。そのありようは虹の身体に似ている。
如来とは、煩悩が無毒となって知恵になり、本来のあるがままの境地において所知障すら完全浄化を果たし、すべての現象をあますところなく悟った存在であり一切知である。この段階においては、主体も客体という区別は完全に倒壊する。もはや常識に縛られることはなくなるし、何ものにも束縛されることはなくなる。すべての存在次元を獲得したものが仏身というものであり、如来とは、外部の対象を指すのではない、みずからの本質の一切のありようが、如来として如実に現れてくるのだ。
人間は執着によって主体と客体を対象化している。夢もまた執着によって映像を対象化しているが、時間的には、ほんの一瞬でしかない。しかし、現実世界ではそれに等しい対象物が顕現してくる。我々の持っているカルマの薫習の積もり積もったものが、五大元素の地水火風空とブッダの三身の身口意が形となって本当に実在するかのように人間として顕現しているのが、我々の世界だ。実際には夢も現実もまったく同じ幻影の映像を見ているが、執着が生み出した顕現に過ぎない。時間と空間と地点という概念から運命というものが生み出される。悟った人はその事実を理解するが、普通の人間にはその術がない。執着こそが人間として存在する理由であるといっても過言ではないだろう。執着の根源は、二元的な見方に陥ってしまったときから出発している。これを輪廻と呼び、その執着がまったく無くなったとき、人間の身口意と肉体を構成する五大元素は徐々に解体していき、あるがままの次元、つまり何もない空間に光となって帰していく。それが解脱の状態だ。
身体的な顕現に幻身と虹の身体がある。幻身はゾクチェンのテクチュ-の修行段階で得られる次元であるが、虹の身体はトゥゲルの修行の結果得られる次元である。幻身はプラーナの次元段階であり、まだ二元的な見解にある。しかし、虹の身体は、光の次元に還元されているので、一切の穢れが浄化されている。テクチューの修行では、普通の視神経を使っており、トゥゲルの修行は、それとは別のもうひとつの神経管を用いるので、戸口が同じであるが、トゥゲルの顕現であるティクレが内的に生み出されるのである。最終的にはトゥゲルの修行をしないと意識を完全に浄化できないし、顕現も浄化できない。つまり、テクチューの修行では、人間の限界を超えることはできない。それは常識と同じようにまだ二元的な見解にあるからだ。
はじめに
宗教には様々な伝統と血脈があり、どこのどれの宗教に属するかは当人の自由である。生まれた国籍や地方、師事した複数のグルによって様々だといえる。すべての伝統や文化は師なくしては、その伝承は不可能であり、教えである宗教もまた例外ではない。
自分の信仰した宗教に飽き足らず、あらゆる宗教を遍歴しようとする人やまったく宗教に興味を示さない人もいる。宗教とはいったい何を基準に人はそれを選び何をもとめているのか、宗教である限り教えであることには変わらない。教えとは何か、教えとは、人間のあらゆる問題を解決し、乗り越えていくためのものだ。そのためには道を示す必要がある。そのときなぜ宗教という教えを用いるのか、宗教が解決しようとするテーマこそが宗教を成り立たせているといってよいだろう。
あらゆる学説もあらゆる技術も宗教が扱うテーマを解決していないことに原因があるようだ。人間は宗教に何か現実を超えた何かを求めようとしている。どうにもならない現実や自分を何とかしてくれるのではないかと幻想を抱いている。教えによっては、運命は変えられるとか超自然的な能力によって問題を解決できるというような宗教が扱うテーマを超えた世界を宗教談議なるものが展開していく。明らかに現実逃避であり、目の前にある問題を直視せずに幻想を追いかけている。しかし、教えはあるがままの自分以上のものを得ることはない。
奇跡的に自分を救ってくれるものが必ずあると信じている。これは教え以前にあらゆるものに執着し、しがみつき、多くを求めている。これは欲望、つまり、煩悩に縛られているのだ。それに付け加え、寺院によっては宗教の伝統文化を盾に信者に布施と奉仕を強要している。寺院は当人の直接的な問題をまったく直視しないまま持論の宗教世界にただ引きずり込んでいるだけに過ぎない。
人は何か悟りを得ようとするときに必ず煩悩(ネガティブな意識)が妨げとなって現れてくる。ときには見解や知識が悟りに対して障害になる場合がある。つまり、意識のなかで概念的な悟りを築き上げてしまったのだ。この現象を発見したのが仏教であるといえる。様々な人生の問題の根底には必ず煩悩がその根本にあるのだ。
それをはっきりと顕わにしてくれたものが古代中国の運命学であった。煩悩のありようは運命学がしっかりと捉えていたのである。古代中国の運命学には「六大課」と呼ばれる三典と三式の伝統がある。三典は文化的薫習によって人間の存在の土台のありようを顕わにして人間の運命の限界点をはっきりと示している。それに対治する様々な運命的教誡があり、ゆえに運命学とも呼ばれているのである。三式はその清浄な土台の潜在的可能性を顕わにしたもので、人間の持つ限界点を越えるある一つの道が示されている。六大課の三典と三式ではあらゆる限界を超える可能性はあるし、あるがままの自分のありようを本当に示すことができる。つまり、道を示すことができるのだ。しかし、これも我々が閉じ込められている二元的な限界から脱出するためのさしあたってのツールに過ぎないのである。
自分を閉じ込めている限界的な見解を打ち破り、真実なる見解を基に人生を、運命を切り開いて生きて行くべきだ。文字や言葉ではこの境地を言い尽くせない。ブッタですらもこの境地を語るのに舌足らずだ。
人生を悲観したり、嘆いたりする必要はまったくない。どのような苦しみのレベルにあろうと、現実で起きていることはすべて夢の中のようなものであり、良いものでも悪いものでもあらゆるものが平等であるからだ。問題は本人の心がどうなりたいかだけだ。夢は三昧の境地にあれば自由に書き換えることができる。現実も夢もまったく同じレベルで生起しているのであるから、何の妨げも限界もない。人間の本質は、もともとそのような制約や限界によって縛られることはない。ただそのありようを本当に認識したとき、それは現実のものとなる。
自ら限界の枠や壁を自分に課す必要はない。問題はその枠や壁をすべて取り払っていくことである。突然すべての自分の限界を打ち破る必要はない。そんなことはブッタですらできなかった。その壁を打ち破る道を学んで行けばよい。自分の鳥かごをいきなり壊して大空に飛び立つことは大きな危険が伴う。しかし、人間の本性は大空につながる無限の空間に飛び立つ可能性を秘めている。誰もが心に宿している心の埋蔵経を開くときがこの時代にやっと到来した。迷うことなく断固として飛び立つのだ。無限に拡大していく空間へと金翅鳥のように雄雄しく誇り高く、何ものにも従うことなく、自らの原初的知性によって、何ものにも頼ることなく、気高く生きて行くのだ。
限界概念を乗り越える方法とは?
すべての人を等しく救うためには、あらゆる限界を乗り越える必要がある。限界とは、人はどのように概念化しているのだろうか。そのためには自分を観察する必要がある。しかし、自分を観察せよといっても、それを正しく解体できるツールを現代人は持ち合わせていないのが現状だ。そのツールすら限界の中に押し込めて使用しているのだから、すぐに行き詰まるのは明らかだ。社会や社会システムに対して不平不満を巻き散らしている人は思ったより多い。その矛先は著名な政治家、宗教家、宗教学者、宗教教団などと数えればきりがない。人生においてすべてが平等に与えられてる有暇を無駄にしているといえるだろう。
ゾクチェンという名の宗教的教えの解体ツールは、人生を見誤る二元的な見方を根本から打ち砕き、人間の歪曲や欺瞞、偽りの人生を徹底的に分解し、解体して浄化し尽くす。
まず道に入った修行者が陥るもっとも恐ろしい罠は、文化や伝統と教えそのものの本質を見誤ることである。ある研究家は、中国大陸に留学してある特定の門派の伝統である古代中国のイデオロギーの洗礼を受けて、日本に戻ったとき、日本の文化にまったく価値を見出さなくなって、日本人なのに中国人のように振舞うようになり、日本文化の誹謗と中傷に明け暮れる毎日となる。変人扱いされ一部の人々としか接触しなくなる。伝統の本質を伝える方法を自分が伝授された通りに繰り返すだけだ。それでは異文化をただ輸入しただけであってまったく意味はない。それよりも伝授された本当の本質を日本文化に統合することの方が本当に価値ある行為であるといえる。なぜ伝統を輸入するだけではなぜダメなのかというと人間的成長が完全に止まってしまうからだ。あらゆる文化のすべてを経験するのに一つの人生では限界がある。大切なのはその本質をつかむことである。確かに文化や伝統は我々の生活に密着した重要なものである。しかし、その本質を見出せなければ、何度同じ場所に留学しても、幾つかの国に留学しても何の成長も得られない。ただエキゾチックな人生を縛る新たな鳥かごがさらに増えるだけだ。むしろ留学したけれど何も得られなかったことがもし本当に解かったら、その人は場所的局所性に限定されることなく、悟りを得ることができるだろう。これはもともと自国の文化や伝統を拒絶してあるがままの自分を否定してしまっていたからである。
今までまったく触れてみなかった新しい思想に魅入られて陶酔するように教えにのめり込んでいくケースがある。古代中国ではこれを「九流三教(あらゆる宗教と迷信に迷う)」という。ある種のイデオロギーに支配されてしまったのだ。そしてその枠組みに入ってこない人々にラベルを貼ってまるで同じ人種なのにまったく特別な人種であるかのように宗教的優越感に浸ってしまう。概念の悟りを構築してしまったのだ。あるがままの自分以上になれるはずはないのに自分は何か特別な人間になったかのように振舞う場合がある。ある種の宗教ツールにおいてもそうだ。お守り以上のものではないものに、それを持つと悟るとか解脱するとかという厄介なものだ。もしもそのツールが人間の限界を打ち破ったとしてもそのようなツールによって悟ることや解脱できると考えること自体、悟りや本当の解脱の意味を、人間の本当のありようをまったく理解していないといえよう。悟りとは、一時的な障害を取り除くことができることであり、問題を乗り越えていくためのものだ。その教えの真価はどれだけ自分の心を開放し心の平安を取り戻すことができるかである。教えとは現実を越えた超リアリティーを追うことではなく、あるがままの自分を見出すことにある。
宗教というものを拒絶するという考え方もまた宗教的な見解といえるだろう。あらゆる宗教を否定し拒絶して生きる人々は意外に多い。そこには宗教的な教えに対する欺瞞や挫折、葛藤が根底に潜んでいる。布教に明け暮れたり、布施や寄付によって功徳を集積したり、異常なまでの宗教戒律に没頭したり、ひたすら狂ったように宗教的供養や修行を続ける人が見受けられる。あらゆる宗教行為は、思考の構築物である限り、絶対に究極の悟りに向かうことはない。その方法では無限の生を費やしても悟りや解脱を得ることはないだろう。なぜならその方法が欠けているからだ。加行を行うにしても何万回も同じ行為をしなければいけないとしたら、根本的にその本質に向き合っていないことになるし、本気で取り組んでいないことになる。確かに加行は仏教修行の土台を作るものなので重要ではあるが、加行は真剣に取り組めば、一回で済んでしまうことではないか。加行の最終目標は、意識の家の倒壊を起こすことであって究極的な悟りを達成することではない。それが解からなければ一生加行を行うしかないだろう。
感謝や洗心を強調する教えもある。むしろ強要といってもよいだろう。感謝も洗心も、与える側と与えられる側や穢れたものと浄化されたものといった二元的な感覚が未だ意識の根底にある。感謝や洗心するよりも尊重することの方が遥かに優れている。なぜならすべての自然のルールは自他共に尊重するところから出発しているからだ。古代中国ではこれを道(タオ)といい風水思想の根本である。尊重が親に向かえば親孝行になるし、兄弟姉妹や友人に向かえば兄弟愛や友愛になる。恋人やパートナーに向かえば愛情になるし、師匠や年長者に向かえば尊敬になる。すべての生き物や不可視の存在するものたちに尊重すれば、同じように自分も尊重される。人生における最悪の状態である家庭崩壊や離婚の危機は、お互いに尊重しなくなったときに発生しているといってよいだろう。煩悩に支配されて一番大切なお互いに尊重し合うことを忘れてしまっているのだ。煩悩によって気が散ってしまっているからだ。不可視の存在から目に見えない憑依現象を受ける場合や外部のエネルギーと戦った場合もその存在を尊重しなくなったとき、初めて障りといった現象として起きるのである。しかし、その原因は、人間の煩悩からすべて発生しているのである。煩悩は正常な常識を持ったと思われる人格者であっても狂気に変貌させてしまうものだ。現代人の我々は煩悩の特質をまったく理解していないようだ。これは教育に組み込まれていないのも要因の一つと数えられるが、宗教が本来行わなければならないテーマである。特に仏教は、煩悩を解決することが本来のテーマであるように見受けられる。どのような仏教であってもお釈迦さまから出発している。お釈迦さまは煩悩を解決しようと出家なされて四諦八正道を説かれた。そしてすべての仏教は四諦八正道を基本ベースに発達したといってよいだろう。
教説や経典を重んじる教えもある。つまり、お釈迦さま自身(仏舎利)やお釈迦さまの説かれた教典を崇拝する教えだ。お釈迦さまが説かれた教えの本質を崇拝すべきであって外形や典籍をいくら崇拝しても悟りや解脱を得ることはない。お釈迦さまの象徴をいくら崇拝しても本質まで辿りつけない。仏陀の時代でも仏足頂礼は、仏陀に対する尊敬の念を態度で現したものであり、現代でも形式的な仏法僧の三宝に参礼し、供養や福徳の集積を行っても、悟りに出会うきっかけにはなってもそれによって直接解脱に至ることや煩悩を克服することはできない。自分を縛っている限界を見つけ出すことである。自分はどのような存在なのか、どのようになりたいのか、どのような態度をとっているのか。誰もが宗教とは、何か偉大な存在が奇跡的に自分を救ってくれると信じているのだ。明らかにそれは幻想であり、宗教は奇跡的に人を救うツールではない。むしろ求めているそれは、神秘学やおまじないなどのオカルト的な魔の行為に属するものだ。しかし、それも幻想にすぎない。ゾクチェンのセムデの教えには、輪廻を捨てて涅槃に向かう行為すら魔の行為としている。つまり、魔の行為も真理なる行為も行為においては平等であり、等しく何も得られないというのが見解なので、迷わず魔の行為をすべきだと説く。棄て去るものも保持するものもない。ただ心の本性であるリクパに留まり続けなさいというのがゾクチェンの見解である。三昧の境地に留まり続けることがゾクチェンのテーマであり、それはブッダが説いた人間が煩悩に対治するための唯一の妙薬だからだ。
宗教というものをすることなしに宗教をするという行為こそが本当に宗教を行っているといえるだろう。宗教することなしに宗教するとはどういうことだろう。宗教が説く教えのエッセンスのみを行えばよい。それ以外のものは、どんな教えであっても思考によって構築されたものであり、意味のないものである。ゾクチェンは思考で構築されたものを追わない。それは虚偽であり、自分をいつわることになるからだ。なぜそれではダメなのかというとそれでは人間の死を乗り越えることができないからだ。ゾクチェンは死とどう向き合っていくかがテーマであり、煩悩やカルマこそ乗り越えて行かなければならない重要なテーマだからだ。なぜなら、煩悩とカルマこそが人間の解脱と転生を分かつ根本原因であるからだ。