第一章
宗教することなしに宗教することはどういうことだろう。まず、どれそれといった宗派に所属する必要はない。もちろん改宗する必要もない。仏教徒であるとかボン教徒であるとかと考えることすら意味はないし、どの人種で、どの国籍で、どの惑星の出身なのかを問う必要もない。何時の時代の教えで、どこの国の教えで、どの伝統のどの血脈にある教えであるかということを論じることすら無意味だ。この教えには時間も空間も場所的局所性による一切の制約や限界はない。
あらゆる宗教行為はそこにはなく、見解すらも尽き果てて、実習不可能であり、宗教概念は倒壊を起こし、常識すら倒壊するので、あらゆる限界概念(戯論)はもうそこには跡形もない。すべての教えが解体したとき、ただその跡に残るのは、教えのエッセンスのみである。この教えのエッセンスのエッセンスである精髄に常に留まろうとするのだ。人はそれを菩提心と呼ぶ。
何ものにも執着しないその精髄である菩提心は、大空を飛ぶ金翅鳥のように拡大も収縮もなく、すでに何もない空間に溶け込んでいる。何ものも求めず、何の意図もなく、何の働きかけもなく、何ものも決定することもない、広大無辺の中に、ただあるがままにある。
戒律も苦行もすべて尽き果てて、何も修習しないその菩提心の精髄は、すでに完成を遂げており、努力して行う特別な真実などはない。顕現してくるものは、等しく完全に成就している。与えていないのにすでに与えられているので、敢てなすべき行為すらない。何も受け取ることもなく、何も保持するものはなく、棄て去るものなど何もない、ただ如実にあるがままにある。
その如実にすら留まることがないなら最高の仏説にも留まる可能性もない。最高の仏説が説かれたことがないのなら最高の原初的知性はどこにも説かれる可能性はない。しかし、原初的知性は、おのずと遍在しており、すべてのものとすでに堅くつながれている。結びつけることも解く必要もない始原よりあり続けている。それを人は明知(心の本性)と呼ぶけれど、それを求めたものたちには、すでにその明知と教えは存在しない。
その心の本性には否定的な部分も変容すべき穢れもない、透明な輝きがそこにあるだけだ。等しく人間の本質も同じようなものであり、何ものもそれを破壊することはできない。それに達した人は、恐れることも喜ぶこともなく、等しく空を体験する。これを絶対的主体と呼ぶけれど、それによって何を得ることもなく、すべてがただ透明な光明の輝きの中にある。
鏡のように現れた対象に執着せず、映し出されたものは、あるがままの自分をただ如実に示している。穢れているとか浄化しているということに意味はない。主体も客体も対象性も対群性もない。それを非対称性と呼ぶけれど、原初より清浄な土台は常に透明に輝いている。すべてを平等に見る蓮華王のように非対称世界を生きるという体験をすることで、対象世界も法性として顕現するから真実の絶対的対称性を獲得する。これは揺るぎない運命の確信なるものである。
その大いなる三昧の境地に常に留まろうとするのが聖仙というものである。原初より為すべきことはなく、煩悩は尽き果てて、原初の知性は顕わになる。二元的な見解は尽き果てて、輪廻も涅槃もない永久の世界に旅立つ。それを虹の身体と呼ぶけれど、あらゆる存在を尊重し、慈しみ、すべての存在を等しく救っている。人はそれを仏身と呼ぶ。
ゾクチェンのロンデとトゥゲルの修行を夢の中で行うのだ。夢の中なら限界に縛られることはない。理想の恋愛も実現しなかった結婚も成就する。出家できなかった人は夢で出家すればよい。現実に人間は、煩悩と、カルマの薫習と、意識が錯誤する知恵の障害と、肉体とに雁字搦めに縛られている。しかし、三昧と自然の光明の三昧には如何なるものもない。だからすべての束縛は自然に解放する。それこそ自然解脱であり、自己解脱だ。それゆえにその三昧の境地に留まり続ける必要があるのだ。ロンデとテクチューとトゥゲルによって意識は完全に浄化され、執着は自然に消滅していく。煩悩は無害となって知恵となり、知恵は現実を力強く生きてゆく友となる。
第一章、存在の土台のありようと、あるがままの行為と、到達すべき要点によって保持する教えの解体を説く。すべてのグルとダーキニーと護法尊とすべての人々とすべての存在するものたちを尊重し、この教えを回向として捧げる。
第二章
順序を追って悟っていく段階の修行には、多くの障害がつきまとう。悟りとはそのような過程によって悟るものではないからだ。本質は密教の外タントラのように上下・対等・同一といった二元的な立場からけっして辿りつけるものではない。まして自分の本質を外部に対象化し神格化した象徴的なものに祈願したり、供養して浄化を求めることは、明らかに本質を顛倒している見方だ。
我々は誤った観点から人生を見ている。本質は今おかれている状態がどのような立場にあり、今本当に為すべきことは何か、あるがままの本質にあれば、自ずと道は開ける。浄化とは、不浄な対象を取り除いたり、変化させることではない。あるがままの境地にあるがゆえにすべては清浄な土台の内に浄化するのである。そもそも対象に浄・不浄といった概念はない。
努力しても道は閉ざされ、行き場を失い、苦しみは減るどころかますます増大していくだけだ。執着とネガティブな意識に支配されて知恵は煩悩によって曇らされる。本質を見失って本来の透明な輝きを失っていく。断ち切るべきは煩悩であるとしゃにむに努力しても煩悩は減るどころかますます成長する。苦行とは、完全にあるがままの自分を否定して、いきなり身・口・意の限界を破壊して欲求を否定しようとする。そして外部に現れたエネルギーについても無知なまま、自然の限界にも戦いを挑もうとする。しかし、それはブッタですら無理な相談だった。煩悩のありようを、外部のエネルギーのありようをまったく理解していないからだ。
苦行によって明知を悟る道には、多くの障害がある。一番の要因は過度の努力を強いているからだ。煩悩を無毒化するには、三昧の境地を維持していくよりほかに方法はない。一瞬三昧に入ったからといってもそれでは、煩悩に対して何の特効薬にはならないのだ。
密教の段階では、煩悩を知恵に変えることはできても、無限に派生する煩悩をすべて知恵に変えることには限界がある。なぜなら二元的な見方によって浄化しようとするからだ。不浄な顕現を清浄な顕現に変えようと常に意識してしまっているのである。まして現実の人々はそのような状況の中で増大していく煩悩を知恵に変えることは不可能だ。密教にも限界があることを知らねばならない。すべては対象に支配されているからだ。その原因は人間が内部に本来持っている執着から来ている。つまり、それが煩悩の正体なのである。
密教の後に出現したゾクチェンは、密教とはまったく違った方法で、煩悩にアプローチして無毒化していく。つまり、密教の持っていた欠点を見事に克服したといってよいだろう。しかし、心の本性である明知を見出すことができなければ、ゾクチェンの修行は何も出発しない。その為には師からの伝授が不可欠だ。師の伝授の血脈なくしては、ゾクチェンの修行は不可能だ。師を求めずに暗黙のまま修行する人は多い。だがそれでは一生の生涯を費やしても真実の悟りに辿りつけないだろう。
第二章、煩悩のありようと、外タントラの教えと、ゾクチェンの教えを説く。
第三章
運命の確信を得るということはゾクチェンの段階ではロンデにおける「疑いがない境地に留まる」ということになる。まさに真実の運命学が行っている自己観察こそが見解なのである。二元的な見解を超えられないことが、すべての解脱を阻む原因や障害になっているのだ。
そのためにメンガギデの教えでは、トゥゲルとヤンティーの修行を行って徹底的に二元的な見解を開放していくのである。明らかにテクチューの教えの段階を超越しているので、ボン教のゾクチェンの教えでは、テクチューの教えは漸進的な教えで、トゥゲルは空を飛んで行くようなものだというほど修行のレベルに格差があるのだ。だからトゥゲルの修行は飛び立つ時期とタイミングを選ばないといけないのだ。
テクチューの修行を完成させたということは、完全にすべてを棄て去って飛び立つ準備の確信と確証を本当に得たから、トゥゲルの修行を行えるのである。つまり、それは死を決意した瞬間でもあり、それを誰も決めることはできない。本人が飛び立つ決心をするか否かの問題である。テクチューの修行のときもそうだ。心の本性に留まり続けるという揺らぎない確固たる決断がなければ、テクチューの修行は出発しない。つまり、トゥゲルは死の体験をすることなく、死を体験する教えといえるだろう。トゥゲルは人間の死を超えてしまう教えだ。
ゾクチェンは本来人間がもともと不可能であることを実現しようとしているのだ。しかし、人間にはどのような存在にもなれる法身と呼ばれるダルマカーヤを持っているのだ。さらには、完璧な理想を実現できる富みの身体である報身と呼ばれるサンボーガカーヤも持っているのだ。飛び立つ決意をすることだ。その絶対的な確信によってどんな状態や状況にあろうと必ず解脱できる。それこそがゾクチェンの本当の真髄であるからだ。確信を持った心こそがすべてを解脱させるキーワードであり、大いなる原初の知恵を発現させることも不可能ではない。
三身を成就することがゾクチェンの到達点であり、しかもそれを維持して行く方法を持っている。そしてすべての存在を遍く平等に救っていける存在である。それ以上の存在がこの世に出現していることなど、あり得ないことだ。しかし、ゾクチェンの教えはそれを可能にしているのだ。その揺るぎない絶対的確信によって仏性に到達しない存在など絶対にあり得ない。すべては、完全成仏、完全解脱している確信を心の本性において完璧な自己解脱を自然解脱を、すべてがすでにあるがままに成就しているという確信を、完璧な認識を超えて完全に理解した人こそ、本当のブッタとなった存在であり、そのような概念すらブッタにはすでにない。完全に存在の彼岸にあるからだ。
第三章、ゾクチェンのメンガギデのテクチューとトゥゲルの修行の真髄の考察を説いた。
第四章
ゾクチェンという教えの伝統にも縛られることなく、虹の身体の伝統を生み出す教えを説くべきだ。法身・報身・化身のブッダの三身を顕現させるのだ。すべての教えの血脈は、人を救うためにあり、すべてが平等で平和な社会を築き上げるためのものだ。
社会は、すべてそのように動き始めているのだ。真実の教えしか人類の迷える存在を本質的に救うことはできないのである。人類は明らかに精神的に進歩している。人はもともと古代から現代において無限の可能性を秘めている。理想郷を説いたシャンバラ伝説や古代中国の歴史を紐解いた『推背図』が説く、すべてが平等な世界は、どんな時代にあってもすでに実現していたのである。しかし、平等な世界にあることを見誤った心ない人々が次々と問題を産み出していたに過ぎなかったのだ。
それゆえに、何ものにも惑わされることなく、自己解脱の道を、自己完成への道を突き進めばよいのだ。社会において宗教的になすべき行為など何もなかったのだ。すべてはあるがままにあるのだから、自分の人生を宗教や宗教以外の何かに制約されて自分の可能性を閉じ込めるようなことは、なくさなければならない。ただあるがままに生きて行けばよいのだ。それ以上の教えは、この世の中には存在しないだろう。それが宗教することなしに宗教せよと説く、教えの本質だ。
だがそれすら狭苦しい考え方だ。ゾクチェンのセムデの教えをお説きになる法身のクンツサンポの立場から見れば、限界概念の中にあるといってよいだろう。どのような表現であれ、今おかれた人間を本当に真実に救えるのは、時間と空間を越えた五術六大課、つまり、般若の知恵しかないというのが見解だ。すべてのありようを見直して、それを乗り越えていくしかない。地球にあるゾクチェンだけに執着する必要はないだろう。13星系にあるゾクチェンの教えも本質的には、何もかわらないだろう。伝えるべきは、ただ一つのことである。その本質を悟るための努力は精一杯すべきだ。それこそが、無努力の教えの真髄となるものである。
だから宗教やその他の教えに縛られてはならない。あるがままの自分の原初的知性に従って金翅鳥が大空をはばたくように執着せず、蓮華王のように平等な態度で、ライオンのように力強く、人間として清らかに品性を持って優雅なまま、あるがままに生きて行けばよいのだ。
ゾクチェンの教えにすら留まる必要はない。しかし、それは、ゾクチェンの教えを否定することではなく、ゾクチェンの教えの説く、概念の殻を打ち破り、すべてはあるがままの本質に到達するために究極の教えへと進化してもよいのだ。それをゾクチェンと呼ぼうが、何と呼ぼうが、それはすべての教えの到達点だ。
第四章、すべてはあるがままに本当に完成していることと、教えに縛られてはいけないことと、すべての限界概念を断ち切ることを説く。
第五章
教えの伝統には、すばらしいものがあるが、それにすら固執してはならない。自由な発想のもとに今この時にこそ必要な心の精髄である真実の教えを生み出していくことだ。これはどんな教えにもいえることだが、今のこの時代のこの時のこの場所にしか出現しない教えがあるのだ。
それを五術六大課と呼ぼうが、ゾクチェンと呼ぼうが、何と呼ぼうが、未来の人々を救う教えに他ならない。時間と空間と地点を超えてその教えは、現代に出現してくる。そのようなありようこそ、普遍的で、不変の原初的知性の戯れといえるだろう。
すべてはあるがままに完成しているというのは、いま目の前で生起しているすべての物事には、善悪や美醜に関係なく、ありのままを映し出しており、あるがままの自分を越えて出現しているものなど何もないのだ。だからその存在にあるがままに留まることこそ、本当の自分のあるがままのありようを、真実の自分のありようを悟り理解した存在といえるだろう。
人生において本来乗り越えるべきものなど何もなかったのである。ただそのとき、その現象に執着してそれを乗り越えようとしただけに過ぎなかったのだ。受容も拒絶もない、すべてはあるがままに広大な大河のように流れており、ただその流れに逆らって生きていたのだ。しかし、その流れに従って生きていく必要すらない。それは当人の自由なのだから、だが自分のやったことに対して責任を取る必要はある。
人生において何を成しても構わない。その責任を取れる範囲で、物事を行うべきだ。できないものや責任が取れないことをすべきではない。もしそれが本当にできない者のために戒律や法律があるのだ。戒律は人間を成長させるためにあり、人間を堕落させるものではない。もし人間が堕落に向かって行くような戒律ならば、保持する必要はなく放棄すべきだ。
自分のやっていることが、どういう結果を生むのか解からずに突き進んでしまうことがある。煩悩に支配されているからだ。それは五術六大課でも理解することができる。しかし、それを理解していないということは、どんなに社会的地位や名誉や財産や品格があったとしても相変わらず無知で知恵がない。つまり、無明(マリクパ)であるからだ。
問題は人間として成長や完成に向かって生きているかということだけ論じればよい。成功や完成に向かわず、堕落や絶望に向かって生きて行ってはならない。良い意味でも悪い意味でも周りの人々を巻き込んでしまうからだ。それは自分をいつわり、可能性を放棄しているのに他ならない。その行為は当人の原初的知性すらも汚してしまっているのだ。
そのような生き方やそのような教えは、必ず限界に達して滅びて行くだろう。人間の成功も失敗も不幸も幸福もすべて平等であり、どのような状況にあったとしても人間の本質を見失わないことだ。すべては空である悟りの確信とあるがままで完成しているのだから何ものにも惑わされることなく、真実の道を歩みなさい。幻術師が作り出した幻影に惑わされることなく、二元的な道を説く六師外道や世俗八法を説く教えを乗り越えて、究極の果を得なさい。そうブッタは時空を超えてそれを説いているのである。
第五章、教えのありようと、責任を取ることと、究極の果を得る教えを説く。
第六章
人間の身・口・意は、ひどい制約を受けている。あらゆるものに縛られているからだ。これはしてはいけません。あれはしてはいけません。と幼いころから徹底的に自分を二元的な立場に押し込んで、無理に心を縛ってきたのである。
その歪みが極度に現れると異常な顕現や病気を発生する。意識に強く働くと精神病に発展し、口のレベルのエネルギーに強く働くと言語障害などの六感に異常が生じ、身体に強く働くと治療不可能な病気が発症する。これは内的な現象だが、外部に働くと家庭不和とか社会における様々な問題となって現れてくる。
すべての秩序は、内外ともにバラバラに破壊されていく。そもそも身口意を調和する方法など社会はまったく考えないままその問題をなおざりにしてきたのだ。それを解明する医学も宗教も政治すらもそれを発見することができなかったのだ。外部に起きた現象に対応するのが精一杯で、内部のものまで考えが及ばなかったのである。
確信に迫る教えも医学も出現しなかった。それを発見しえなかったのは、人間の本質を悟っていないからだ。現代の政治は多くの犠牲者を生み出している。古代中国の政治は、如何に人を殺さないで政治を行うかがテーマであったのだ。それは人間の真実のありようを誰も見届けられなかったためである。雄大な時代と無限の時間の中で、ただブッダだけがその真実を一時悟ったのに過ぎなかったのではないだろうか。
どのようなレベルの嗜好物を使って自分が作り出したストレスを開放しようとするのは、誰もが狭苦しい人生を歩んでいるからだ。それを否定することからも肯定することからも離脱すべきだ。現実を実体のあるものだと信じているからこそ問題が生起してくるのだ。
ブッダが説いた空の悟りの確信があれば、すなわち夢の中であれば、それは幻影や幻想であると理解できるはずだ。それを理解できないということは、極度の執着があるからだ。それは見解によるものであるかもしれない。カルマの薫習であるかもしれない。煩悩によって受容と拒絶しているのかもしれない。
ゾクチェンの教えは、人間を内部から解き放っていく教えであり、外部から解き放っていく教えではない。現代の人間はあるがままの身口意のありようを特質をまったく理解していない。その可能性すら否定している。ゾクチェンの教えは、それを、内部より目覚めさせることによって身口意を制御しようとするのだ。身口意を三昧に統合して、生起する問題を根本的な立場に立って統合しようとするのである。
第六章、身口意のありようと、カルマと心の浄化と、内部から目覚めさせることを説く。
第七章
問題を解決することは、戦うことではない。戦いは問題を解決するどころか、憎しみを増大させていくだけだ。物事を対象化したところには、受容と拒絶しかない。すべての問題に対して戦いを挑む人は多い。しかし、それも自分の本性が写し出したものに過ぎないのだ。不可視のものやまったく制御不能なものに対してまで、そのエネルギーと戦おうとする。だがそれは無謀であり、無知である。
概念化したものは、そこにはないものまで、さも現実にあるかのように心は顕現させてしまう。もうまったく影響を受けなくなったものにすら、影響を受けていると想ってしまう。心とは非常に恐ろしいものだ。ないものをあるとしてしまう一連の心の作用は、明らかに思考の構築物であり、意味のないものだ。
煩悩もそれと同じだ。怒りが成長して行くと憎しみや憎悪になってしまう。そしてそれを実現しようとどんな対象物であろうが、その怒りをぶつけてしまうのだ。まったく本来の意志に関係のない行動をしてしまう。つまり、煩悩によって狂ってしまったのだ。煩悩に支配されて見境もなく突進してしまったのだ。
煩悩が意識に働くと、意識の錯誤が起きる。
煩悩がエネルギーに働くと、エネルギーの不調和が起きる。
煩悩が身体に働くと、病気が発症する。
宗教的な指導者ならばそこに大義名分を付け加えようとする。しかし、それはまったく意味のない行為だ。リーダーの思考の構築物に過ぎない。問題なのは、その教えを何も判断しないで、素直に受け取ることである。その教えの正邪を見破れないとしたら、どんな人生を歩んでいても危険の渦中にいる。ブッダの説く知恵とは、そのような危険を察知する能力であり、それを乗り越えて行く教えでもある。
無用なものなどなく、今起きている問題を批判するよりも、どうすべきかを説くことこそ、優先すべきだ。今為すことは、玉石を見極めることであり、現実を直視すべきで今顕現している物事に大きな意味がある。そのすべてのありようを、意味のすべてを、三昧に統合すべきだ。
それ以上のもの、至高、究極、無上を説いたものに人は出合ったとき、それ以上のものを敢えて追うことはなくなる。つまり、それ以上の頂上がない地点に行き着いたのだ。どこに行き着いたのか、それこそが彼岸だ。ニルバーナと呼ばれる境地だ。それ以上の行為を成すべきことのない境地としてあるがままに完成している境地である。すべての到達点であり、到達するという概念はもうそこには存在しないのである。
第七章、問題の解決のありようと、煩悩の成長と結果と、そこからの離脱を説く。