阿羅漢・菩薩・如来とは?
人はカルマと呼ばれる意志・行為・満足の三つのサイクルを繰り返しながら生きている。この意志決定の段階で、我々はカルマの薫習やネガティブな意識の穢れによってもともと意識が錯誤を来たしており、煩悩を育てて行く方向に生きている。ほとんどの人が煩悩によって気が散ったまま生きている。煩悩は完全に人の知恵を曇らせている。人はさらに肉体にも縛られている。常軌を逸した行動は、明らかに活動の根本にいつも煩悩が潜んでいる。人を突き動かしているのは煩悩であり、すべては煩悩によって人は生かされている。煩悩とカルマこそが人間の存在理由だ。煩悩が産み出したものが成長して行ったとき、始めて目に見える形で、人々に害を成すものや人々を救済するものとなる。
それを仏教では、煩悩は苦しみの原因をなすものであり、害となるものであると説く。ゆえに原始仏教でブッダは、煩悩を放棄する道を説いた。密教では、煩悩を知恵に変えるエネルギーの知識を基盤とする変容の道を説いた。しかし、煩悩が無害となって知恵になる教えがある。煩悩に支配されることなく、反対にそれを支配し無毒化する教えが存在する。これこそが本来の仏教の姿であり、ゾクチェンと呼ばれる自然解脱、自己解脱を説く教えだ。そして人間の持つ身・口・意のレベルに対応しながら原始仏教は身体のレベルに対しての煩悩のありようを説き、密教は口レベルであるエネルギーに対しての煩悩のありようを説き、ゾクチェンは意識のレベルにおける煩悩のありようを説いているのだ。
人間の根源的な苦しみの原因である煩悩とどう向き合うか、どう対治していくかを説くことがブッタのテーマであり、釈迦もブッタもそれを実現したことで人間という存在の限界を乗り越えたのである。それが仏教のすべての到達点であるといえるだろう。よく仏教的象徴に用いられる阿羅漢・菩薩・如来・仏身の本当の意味とは、我々の心から遠く隔たった非日常的な存在ではなく、我々が本来持っている心の状態を示したものだったのである。我々の意識は、カルマの薫習やネガティブな意識によって歪められ、ただ一時的に曇らされていたに過ぎなかったのだ。
阿羅漢とは、三昧の境地を確実のものとして完全に自らの煩悩とカルマを克服した存在であり、完全に空の悟りの確信に達した存在であり、存在の土台をあますところなく知り尽くした存在である。このような存在を仏教では聖者と呼ぶのである。
菩薩は、対象世界を戒律のよって行為するのではなく、原初的知性によって行為していくので、一切の制約や限界がない。自他の煩悩すら行為において無毒化していく存在であるのですべての生き物を等しく救うことができる。そのありようは虹の身体に似ている。
如来とは、煩悩が無毒となって知恵になり、本来のあるがままの境地において所知障すら完全浄化を果たし、すべての現象をあますところなく悟った存在であり一切知である。この段階においては、主体も客体という区別は完全に倒壊する。もはや常識に縛られることはなくなるし、何ものにも束縛されることはなくなる。すべての存在次元を獲得したものが仏身というものであり、如来とは、外部の対象を指すのではない、みずからの本質の一切のありようが、如来として如実に現れてくるのだ。
人間は執着によって主体と客体を対象化している。夢もまた執着によって映像を対象化しているが、時間的には、ほんの一瞬でしかない。しかし、現実世界ではそれに等しい対象物が顕現してくる。我々の持っているカルマの薫習の積もり積もったものが、五大元素の地水火風空とブッダの三身の身口意が形となって本当に実在するかのように人間として顕現しているのが、我々の世界だ。実際には夢も現実もまったく同じ幻影の映像を見ているが、執着が生み出した顕現に過ぎない。時間と空間と地点という概念から運命というものが生み出される。悟った人はその事実を理解するが、普通の人間にはその術がない。執着こそが人間として存在する理由であるといっても過言ではないだろう。執着の根源は、二元的な見方に陥ってしまったときから出発している。これを輪廻と呼び、その執着がまったく無くなったとき、人間の身口意と肉体を構成する五大元素は徐々に解体していき、あるがままの次元、つまり何もない空間に光となって帰していく。それが解脱の状態だ。
身体的な顕現に幻身と虹の身体がある。幻身はゾクチェンのテクチュ-の修行段階で得られる次元であるが、虹の身体はトゥゲルの修行の結果得られる次元である。幻身はプラーナの次元段階であり、まだ二元的な見解にある。しかし、虹の身体は、光の次元に還元されているので、一切の穢れが浄化されている。テクチューの修行では、普通の視神経を使っており、トゥゲルの修行は、それとは別のもうひとつの神経管を用いるので、戸口が同じであるが、トゥゲルの顕現であるティクレが内的に生み出されるのである。最終的にはトゥゲルの修行をしないと意識を完全に浄化できないし、顕現も浄化できない。つまり、テクチューの修行では、人間の限界を超えることはできない。それは常識と同じようにまだ二元的な見解にあるからだ。