はじめに
宗教には様々な伝統と血脈があり、どこのどれの宗教に属するかは当人の自由である。生まれた国籍や地方、師事した複数のグルによって様々だといえる。すべての伝統や文化は師なくしては、その伝承は不可能であり、教えである宗教もまた例外ではない。
自分の信仰した宗教に飽き足らず、あらゆる宗教を遍歴しようとする人やまったく宗教に興味を示さない人もいる。宗教とはいったい何を基準に人はそれを選び何をもとめているのか、宗教である限り教えであることには変わらない。教えとは何か、教えとは、人間のあらゆる問題を解決し、乗り越えていくためのものだ。そのためには道を示す必要がある。そのときなぜ宗教という教えを用いるのか、宗教が解決しようとするテーマこそが宗教を成り立たせているといってよいだろう。
あらゆる学説もあらゆる技術も宗教が扱うテーマを解決していないことに原因があるようだ。人間は宗教に何か現実を超えた何かを求めようとしている。どうにもならない現実や自分を何とかしてくれるのではないかと幻想を抱いている。教えによっては、運命は変えられるとか超自然的な能力によって問題を解決できるというような宗教が扱うテーマを超えた世界を宗教談議なるものが展開していく。明らかに現実逃避であり、目の前にある問題を直視せずに幻想を追いかけている。しかし、教えはあるがままの自分以上のものを得ることはない。
奇跡的に自分を救ってくれるものが必ずあると信じている。これは教え以前にあらゆるものに執着し、しがみつき、多くを求めている。これは欲望、つまり、煩悩に縛られているのだ。それに付け加え、寺院によっては宗教の伝統文化を盾に信者に布施と奉仕を強要している。寺院は当人の直接的な問題をまったく直視しないまま持論の宗教世界にただ引きずり込んでいるだけに過ぎない。
人は何か悟りを得ようとするときに必ず煩悩(ネガティブな意識)が妨げとなって現れてくる。ときには見解や知識が悟りに対して障害になる場合がある。つまり、意識のなかで概念的な悟りを築き上げてしまったのだ。この現象を発見したのが仏教であるといえる。様々な人生の問題の根底には必ず煩悩がその根本にあるのだ。
それをはっきりと顕わにしてくれたものが古代中国の運命学であった。煩悩のありようは運命学がしっかりと捉えていたのである。古代中国の運命学には「六大課」と呼ばれる三典と三式の伝統がある。三典は文化的薫習によって人間の存在の土台のありようを顕わにして人間の運命の限界点をはっきりと示している。それに対治する様々な運命的教誡があり、ゆえに運命学とも呼ばれているのである。三式はその清浄な土台の潜在的可能性を顕わにしたもので、人間の持つ限界点を越えるある一つの道が示されている。六大課の三典と三式ではあらゆる限界を超える可能性はあるし、あるがままの自分のありようを本当に示すことができる。つまり、道を示すことができるのだ。しかし、これも我々が閉じ込められている二元的な限界から脱出するためのさしあたってのツールに過ぎないのである。
自分を閉じ込めている限界的な見解を打ち破り、真実なる見解を基に人生を、運命を切り開いて生きて行くべきだ。文字や言葉ではこの境地を言い尽くせない。ブッタですらもこの境地を語るのに舌足らずだ。
人生を悲観したり、嘆いたりする必要はまったくない。どのような苦しみのレベルにあろうと、現実で起きていることはすべて夢の中のようなものであり、良いものでも悪いものでもあらゆるものが平等であるからだ。問題は本人の心がどうなりたいかだけだ。夢は三昧の境地にあれば自由に書き換えることができる。現実も夢もまったく同じレベルで生起しているのであるから、何の妨げも限界もない。人間の本質は、もともとそのような制約や限界によって縛られることはない。ただそのありようを本当に認識したとき、それは現実のものとなる。
自ら限界の枠や壁を自分に課す必要はない。問題はその枠や壁をすべて取り払っていくことである。突然すべての自分の限界を打ち破る必要はない。そんなことはブッタですらできなかった。その壁を打ち破る道を学んで行けばよい。自分の鳥かごをいきなり壊して大空に飛び立つことは大きな危険が伴う。しかし、人間の本性は大空につながる無限の空間に飛び立つ可能性を秘めている。誰もが心に宿している心の埋蔵経を開くときがこの時代にやっと到来した。迷うことなく断固として飛び立つのだ。無限に拡大していく空間へと金翅鳥のように雄雄しく誇り高く、何ものにも従うことなく、自らの原初的知性によって、何ものにも頼ることなく、気高く生きて行くのだ。
限界概念を乗り越える方法とは?
すべての人を等しく救うためには、あらゆる限界を乗り越える必要がある。限界とは、人はどのように概念化しているのだろうか。そのためには自分を観察する必要がある。しかし、自分を観察せよといっても、それを正しく解体できるツールを現代人は持ち合わせていないのが現状だ。そのツールすら限界の中に押し込めて使用しているのだから、すぐに行き詰まるのは明らかだ。社会や社会システムに対して不平不満を巻き散らしている人は思ったより多い。その矛先は著名な政治家、宗教家、宗教学者、宗教教団などと数えればきりがない。人生においてすべてが平等に与えられてる有暇を無駄にしているといえるだろう。
ゾクチェンという名の宗教的教えの解体ツールは、人生を見誤る二元的な見方を根本から打ち砕き、人間の歪曲や欺瞞、偽りの人生を徹底的に分解し、解体して浄化し尽くす。
まず道に入った修行者が陥るもっとも恐ろしい罠は、文化や伝統と教えそのものの本質を見誤ることである。ある研究家は、中国大陸に留学してある特定の門派の伝統である古代中国のイデオロギーの洗礼を受けて、日本に戻ったとき、日本の文化にまったく価値を見出さなくなって、日本人なのに中国人のように振舞うようになり、日本文化の誹謗と中傷に明け暮れる毎日となる。変人扱いされ一部の人々としか接触しなくなる。伝統の本質を伝える方法を自分が伝授された通りに繰り返すだけだ。それでは異文化をただ輸入しただけであってまったく意味はない。それよりも伝授された本当の本質を日本文化に統合することの方が本当に価値ある行為であるといえる。なぜ伝統を輸入するだけではなぜダメなのかというと人間的成長が完全に止まってしまうからだ。あらゆる文化のすべてを経験するのに一つの人生では限界がある。大切なのはその本質をつかむことである。確かに文化や伝統は我々の生活に密着した重要なものである。しかし、その本質を見出せなければ、何度同じ場所に留学しても、幾つかの国に留学しても何の成長も得られない。ただエキゾチックな人生を縛る新たな鳥かごがさらに増えるだけだ。むしろ留学したけれど何も得られなかったことがもし本当に解かったら、その人は場所的局所性に限定されることなく、悟りを得ることができるだろう。これはもともと自国の文化や伝統を拒絶してあるがままの自分を否定してしまっていたからである。
今までまったく触れてみなかった新しい思想に魅入られて陶酔するように教えにのめり込んでいくケースがある。古代中国ではこれを「九流三教(あらゆる宗教と迷信に迷う)」という。ある種のイデオロギーに支配されてしまったのだ。そしてその枠組みに入ってこない人々にラベルを貼ってまるで同じ人種なのにまったく特別な人種であるかのように宗教的優越感に浸ってしまう。概念の悟りを構築してしまったのだ。あるがままの自分以上になれるはずはないのに自分は何か特別な人間になったかのように振舞う場合がある。ある種の宗教ツールにおいてもそうだ。お守り以上のものではないものに、それを持つと悟るとか解脱するとかという厄介なものだ。もしもそのツールが人間の限界を打ち破ったとしてもそのようなツールによって悟ることや解脱できると考えること自体、悟りや本当の解脱の意味を、人間の本当のありようをまったく理解していないといえよう。悟りとは、一時的な障害を取り除くことができることであり、問題を乗り越えていくためのものだ。その教えの真価はどれだけ自分の心を開放し心の平安を取り戻すことができるかである。教えとは現実を越えた超リアリティーを追うことではなく、あるがままの自分を見出すことにある。
宗教というものを拒絶するという考え方もまた宗教的な見解といえるだろう。あらゆる宗教を否定し拒絶して生きる人々は意外に多い。そこには宗教的な教えに対する欺瞞や挫折、葛藤が根底に潜んでいる。布教に明け暮れたり、布施や寄付によって功徳を集積したり、異常なまでの宗教戒律に没頭したり、ひたすら狂ったように宗教的供養や修行を続ける人が見受けられる。あらゆる宗教行為は、思考の構築物である限り、絶対に究極の悟りに向かうことはない。その方法では無限の生を費やしても悟りや解脱を得ることはないだろう。なぜならその方法が欠けているからだ。加行を行うにしても何万回も同じ行為をしなければいけないとしたら、根本的にその本質に向き合っていないことになるし、本気で取り組んでいないことになる。確かに加行は仏教修行の土台を作るものなので重要ではあるが、加行は真剣に取り組めば、一回で済んでしまうことではないか。加行の最終目標は、意識の家の倒壊を起こすことであって究極的な悟りを達成することではない。それが解からなければ一生加行を行うしかないだろう。
感謝や洗心を強調する教えもある。むしろ強要といってもよいだろう。感謝も洗心も、与える側と与えられる側や穢れたものと浄化されたものといった二元的な感覚が未だ意識の根底にある。感謝や洗心するよりも尊重することの方が遥かに優れている。なぜならすべての自然のルールは自他共に尊重するところから出発しているからだ。古代中国ではこれを道(タオ)といい風水思想の根本である。尊重が親に向かえば親孝行になるし、兄弟姉妹や友人に向かえば兄弟愛や友愛になる。恋人やパートナーに向かえば愛情になるし、師匠や年長者に向かえば尊敬になる。すべての生き物や不可視の存在するものたちに尊重すれば、同じように自分も尊重される。人生における最悪の状態である家庭崩壊や離婚の危機は、お互いに尊重しなくなったときに発生しているといってよいだろう。煩悩に支配されて一番大切なお互いに尊重し合うことを忘れてしまっているのだ。煩悩によって気が散ってしまっているからだ。不可視の存在から目に見えない憑依現象を受ける場合や外部のエネルギーと戦った場合もその存在を尊重しなくなったとき、初めて障りといった現象として起きるのである。しかし、その原因は、人間の煩悩からすべて発生しているのである。煩悩は正常な常識を持ったと思われる人格者であっても狂気に変貌させてしまうものだ。現代人の我々は煩悩の特質をまったく理解していないようだ。これは教育に組み込まれていないのも要因の一つと数えられるが、宗教が本来行わなければならないテーマである。特に仏教は、煩悩を解決することが本来のテーマであるように見受けられる。どのような仏教であってもお釈迦さまから出発している。お釈迦さまは煩悩を解決しようと出家なされて四諦八正道を説かれた。そしてすべての仏教は四諦八正道を基本ベースに発達したといってよいだろう。
教説や経典を重んじる教えもある。つまり、お釈迦さま自身(仏舎利)やお釈迦さまの説かれた教典を崇拝する教えだ。お釈迦さまが説かれた教えの本質を崇拝すべきであって外形や典籍をいくら崇拝しても悟りや解脱を得ることはない。お釈迦さまの象徴をいくら崇拝しても本質まで辿りつけない。仏陀の時代でも仏足頂礼は、仏陀に対する尊敬の念を態度で現したものであり、現代でも形式的な仏法僧の三宝に参礼し、供養や福徳の集積を行っても、悟りに出会うきっかけにはなってもそれによって直接解脱に至ることや煩悩を克服することはできない。自分を縛っている限界を見つけ出すことである。自分はどのような存在なのか、どのようになりたいのか、どのような態度をとっているのか。誰もが宗教とは、何か偉大な存在が奇跡的に自分を救ってくれると信じているのだ。明らかにそれは幻想であり、宗教は奇跡的に人を救うツールではない。むしろ求めているそれは、神秘学やおまじないなどのオカルト的な魔の行為に属するものだ。しかし、それも幻想にすぎない。ゾクチェンのセムデの教えには、輪廻を捨てて涅槃に向かう行為すら魔の行為としている。つまり、魔の行為も真理なる行為も行為においては平等であり、等しく何も得られないというのが見解なので、迷わず魔の行為をすべきだと説く。棄て去るものも保持するものもない。ただ心の本性であるリクパに留まり続けなさいというのがゾクチェンの見解である。三昧の境地に留まり続けることがゾクチェンのテーマであり、それはブッダが説いた人間が煩悩に対治するための唯一の妙薬だからだ。
宗教というものをすることなしに宗教をするという行為こそが本当に宗教を行っているといえるだろう。宗教することなしに宗教するとはどういうことだろう。宗教が説く教えのエッセンスのみを行えばよい。それ以外のものは、どんな教えであっても思考によって構築されたものであり、意味のないものである。ゾクチェンは思考で構築されたものを追わない。それは虚偽であり、自分をいつわることになるからだ。なぜそれではダメなのかというとそれでは人間の死を乗り越えることができないからだ。ゾクチェンは死とどう向き合っていくかがテーマであり、煩悩やカルマこそ乗り越えて行かなければならない重要なテーマだからだ。なぜなら、煩悩とカルマこそが人間の解脱と転生を分かつ根本原因であるからだ。