抽象的・象徴的・直接的な教え
仏教の教えや宗派というものを成り立たせているのは、仏教というものを対象化した教えと考えてしまったからだ。つまり、思考によって概念化された教えであるといってよいだろう。だから顕教・密教・ゾクチェンといった宗教がさもあるように想ってしまう。さらに密教には、外タントラ・内タントラ・不二タントラがあり、それに対応する伝統と宗派が存在する。修行の段階もすべて修行しなければならないようにみえる。これはすべて対象化されて分類された教えである。
顕教は、明らかに抽象的な教えであり、教科書で学んだように仏教を学習する段階だ。経・律・論のつまり、三蔵を学び、南華密教『西遊記』では、経典研鑽者に区別される。概念によって仏教を構築して行くので、外部に顕われた現象を説明するのが精一杯なため最終的に身体的な戒律や倫理的な教訓を重んじる教えとなってしまった。この段階の修行者は、抽象的ではない教えすら抽象的に解釈してしまおうとすることだ。そこには実際に体験したことと無関係な議論が展開していくだけだ。現代科学やすべての学問は、このような技法が用いられており、すべてを概念化しないと気がすまないようだ。その結果、論争に明け暮れる毎日となる。
密教は、象徴的な教えであり、呼吸にともなったエネルギーにも関係している。神経医学にも関連しており、特に金剛と金剛鈴が象徴として用いられる。金剛は、輪廻と涅槃を象徴するもので、それ以上の何ものでもない。密教は不浄な顕現を清浄な顕現に変容するので、変化の道と呼ばれている。南華密教では、功夫の修行者に区別され、エネルギーに関する修行が中心となり、漸進的に段階を踏んで三昧の境地に辿りつく方法が説かれている。ある宗派では、象徴的なものにエネルギーを付入して悟りを得るというような可笑しな教えがある。仏教的象徴の仏像や仏舎利塔にエネルギーを付入して神仏を対象化して祈る人々がいる。これは神仏を自分の外にあると対象化して自分より優れた存在であると考えて、その対象に自分を浄化してもらうという外タントラのクリアタントラと呼ばれる浄化の道だ。クリアタントラはそこから高度なタントラに取り組んでいく課程のタントラに過ぎないし、外タントラの入り口に過ぎないのだ。外タントラは苦行によって三昧(リクパ)を悟っていく道なので、現代人の一般の人々が修行するには、非常に制約の多い修行法だ。外タントラで三昧を見出すことができたとしても、それによって煩悩や死を乗り越えて行くことはできない。なぜなら外タントラの他になぜ内タントラや不二タントラがあるのかを知らなければならない。密教はそういった意味では、本尊を対象化して祈祷を行うので、西洋の宗教や日本の神道、中国の道教のように祈るという立場から見れば共通しているといえよう。
ゾクチェンは、直接三昧の境地に入っていくので、直接的な教えである。口頭・象徴・直接(セムデ・ロンデ・メンガギデ)の三種の伝授によって師が悟っている三昧の境地である原初の境地を伝授していくのである。この存在の土台とも呼ばれるリクパという境地を見出せなければゾクチェンの修行は何も出発しない。そうでなければ思い込みの概念化した三昧の境地であって幻想を追った自己解脱に酔いしれているだけに過ぎない。人間の意のレベルは非常に微細なもので、他人からはそれを理解できない。まさに身口意の意は秘密の存在なのである。だからグルヨーガが一番重要なのだ。師が悟ったリクパを頼りに弟子は自分のリクパを見出していくしかないのだ。南華密教では、「カギュ派の六法」つまり、内火・幻身・修夢・光明・中陰・転移がゾクチェンの修行段階に相応するものである。
本当の教えを説く仏教者ならば南華密教『西遊記』の三蔵・悟空・八戒・和尚の4つの道である仏教的な限界に閉じ込められることなく教えを伝達して普及すべきだ。三蔵は経典研鑽者なので、体験とは無関係な机上の空論の見解である限り、現実的な問題に直接効果はない。悟空の功夫の修行者は、様々な修行体験を積んでいるので、現実を乗り越える術を手にしている。これは五術六大課もこの範疇に入るといえよう。しかし、空を悟った悟空にも乗り越えられない限界がある。それは概念の空論に閉じ込められているからだ。悟浄は、戒律支持者であり、戒律も度が過ぎると人生に害を与える場合がある。それは人生において誰もが大切で必要な体験を戒律のためにそれを拒絶したまま人生を終わらせてしまう場合あることだ。和尚は寺院布教者であり、経営や営業によって布教していくので、企業や商店と間違えてしまう部分が多分にある。和尚は伝統的な仏教の伝統文化に縛られているので、現代に誤った形で仏教を説いてしまう場合がある。伝統文化と教えを混同して教えてしまう宗教者は以外に多い。それは時代錯誤も甚だしく現代にまったく役に立たない仏教的伝統を一部の愛好者に提供しているに過ぎない。宗教団体は、この和尚の段階が肥大化したものといえよう。人間は確かに社会的責任が取れれば、何をしても構わないだろう。しかし、自分のやっていることがどういう結果を産むのかも解からずに突進してしまうことがある。知恵と覚醒と自覚を保っていないからだ。それは大きな団体になればなるほど社会的影響力が大きくなる。そういった場合、個人が行った責任も個人ではまったく責任が取れないような段階に成長してしまうことがある。そういう場合果たして宗教的リーダーは信者が行ったことに対して責任がどこまで取れるのか真剣に考えたことがあるのだろうか。そこで行われていることは、すでに宗教が本来行おうとしているテーマと食い違っている。悟りの世界において徒党を組んでなすべきことなど世の中に何も存在しないし、得るべきものなど何もない。
問題は仏教者だからといって真実の仏教が説けるとは限らないし、仏教者とはまったく関係のない人が実は仏教の確信に迫る教えを説くこともあり得るからだ。仏教で一番大切なのは、宗派や国籍に関係なく、人間の原初の境地である三昧の境地に引き戻すことであり、それ以外のことは、人生において究極的には、本当に自分を救うことにはならないからだ。