ブッダは、すべての教えを転覆したのではない。すべての教えを解体して、争うことなく、すべての存在をニルバーナに導く教えを説いたのだ。それこそがブッダの説いた真理の教えだ。
ニルバーナを達成していない者にニルバーナとは何かと質問することは無意味だ。それと同じくすべての教えを転覆したナーガールジュナの教えも大きな意味を持たなくなる。
仏足頂礼は、ブッダに対する尊敬の念に過ぎない。それを解脱や悟りに結びつけることは、自分の本性を穢してしまうことなのだ。
時間と空間を超えて顕現してきたものを人は、それを拒絶することも受容することすらできない。それは真実のありようを顕わにしているからだ。
いま本当に必要な教えを保持し、実践すればよい。それ以外の教えは、何の効力を持たないだろう。しかし、教えの概観と効用を知っていなければ、それは手探りで解脱を求めている妄人と同じだ。
「九流三教」という言葉は、現代の宗教のありようを如実に示している。いったい何を信じていけばよいのか。五術六大課とは、まさにどんな時代やどんな空間やどんな場所にあろうが、真実の自分を顕わにする道しるべとなる。
伝統がまったくない、つまり、見せかけだけの教えがまかり通り、世を動かしてしまったことが、多くの問題を作り出している。反対に伝統があるのに、まったく伝統の本質を伝えることなく、民衆を解脱のいつわりへと導いた宗教者たちも存在する。
本当の解脱と概念で作り上げた空論の間には何の関係も接点もない。それは解脱の境地にあるとき、すべては明らかになる。
ブッダの説いた四諦八正道(三十七菩提分法)の教えをいくら概念化しても真実に辿りつくものではない。それはブッダの直接体験から生み出されたものであり、その体験を実現するためには、あらゆる努力と工夫が必要だ。ただ原典を読み解いているだけでは何にもならない。
ゾクチェンの教えは、明らかにブッダの教えを成長させ、三昧と解脱を完全なる教えの土台としているので、伝統の血脈を世襲しているといえる。なぜ原典のアーガマだけに固執して修行する必要があろうか。当時と何ら変わらないやりかたでは、何も意味はない。なぜなら、そのブッダは、いまここにいないのだから。
教えや修行のコレクションを作ることに何の意味はない。確信となる教えのみを説くべきだ。教えは人を真実の悟りに向かわせるものであり、人を教えに縛り付けるものは、明らかに道を踏み外すものだ。
教えを説くものが、教えの本質に達していなければ、それはどんな教えであっても人生を生かすものにはならないし、それは一時期だけの人気の集まる教えに過ぎない。