奇門遁甲に関して正しい運用法を理解している人は非常に少ないといえよう。奇門遁甲を説く門派を超えて真実の奇門遁甲のありようを説く必要があるだろう。
門派は伝統の血脈をたいへん重要視するので、本当の口訣を世に明らかにすることはまずない。しかし、伝統のあるものは、原典というものが存在し、そこから門派が発生していることはすべての門派のありようといえるだろう。
拠所のない門派は、明らかに意図的に創作された奇門遁甲であるといってよいだろう。筆者の究明した奇門遁甲は、少なくとも伝統的な奇門遁甲に回帰しており、誰もその説を否定することはできない。なぜなら、それを否定することは、古代中国の伝統文化を否定することになるからだ。
現存する奇門遁甲の文献は、北京大学図書館や故宮博物院図書館、主要な北京図書館、上海図書館に眠っている。その奇門遁甲の写本やテキストは、明王朝や清王朝のときに著されたものである。
問題は文献が正しいとか、血脈が正しいとかということではなく、古代中国の実際に三国の諸葛孔明や明宰相だった劉基が使っていた奇門遁甲のありようを明らかにしようと想うことは、術の継承者として古人に対する最低限の敬意をはらうことになる。
実際に諸葛孔明の子孫が残した写本が現存しているのだ。そして劉基の複数のテキストも実際に現存する。(あるブログに筆者が自分は諸葛孔明の子孫だというようなおかしな記事が載っているが、筆者はただ諸葛孔明の子孫が書き残した奇門遁甲の写本が存在することを紹介したに過ぎない。奇門遁甲と真剣に向き合っている人ならすぐ解かるはずだが。)
筆者の結論としては、普遍的なロジックとしてみる奇門遁甲と個人的なロジックとして用いる奇門遁甲が存在することだ。つまり、風水として用いられるものと方位に用いられる奇門遁甲が存在する。このありようは風水的な概念として坐山と立向として表現されている。
故張明澄先生は、明澄透派13代の張耀文を名乗り、数々の奇門遁甲の典籍や秘伝を公開しているが、一般の方々は、それらの著作を一読もされずに一般の奇門遁甲に頼って運用しようとしているが、これが大きな間違いといえるだろう。
門派は、誤って秘伝が伝わらないようにわざと秘伝をバラして出すということをまず、認識しなければならない。さらに秘伝は、段階的に悟って行くプロセスを秘めているのだ。一冊の本で奇門遁甲のすべてを語ることは不可能だ。それには、師からの伝授が必要だ。
一般の占い師の奇門遁甲は、所詮、概念の構築物に過ぎない。なぜなら、体験と経験がまったく盛り込まれていないからだ。ただ概念によって抽象的に本質を否定しようとしているだけだ。それは自分だけの利益の為に他を排除しようとする独善的な行為に過ぎない。本質を歪めてはならない。しかし、その本質を素直に受け取れない人々にこそ多くの問題があるといえよう。
受け取る側の態度がなっていない場合もある。方位によって人生の問題のすべてが解決できると思い込んでいる。仏教で言うならば、我執の窮みである。吉方位をむさぼってしがみつき、常識を無視して何でもかんでもその方位をみさかいなく使おうとする。これらの行為は煩悩に支配されているのであって冷静に開運できるような態度を取っているとはいえないだろう。
人は煩悩に支配されていることはすでに述べたが、五術六大課を用いるときも、それらに支配されてはならない。術士やその信者たちが吉方位を使おうという行為は、幻影や幻想を生み出しているだけで、問題の本質を無視した思い込みの吉方位や開運を夢見ているのに過ぎない。
なぜ現実を直視しないのか、まず自分の運命のありようを観察することから始める必要があるのではないか。そのとき、初めて運命的可能性があるなら、そのときこそ、奇門遁甲を用いれば良いのである。
奇門遁甲は時間と空間を用いるので、五大元素で言うならば、空の元素との融合を説くものである。ゾクチェンの修行で言うならばロンデのナムカーアルテーの修行(空間との融合と放松を説く)に近いといえよう。ある空間と時間の中にすべての多様性が包含されているので、ロンデの修行は、この多様に出現する現象を何の努力もなしに自らの三昧に統合していくのである。
そこには善悪や成敗といったものを区別する必要はない。つまり、奇門遁甲は、これらの多様性を区別する知恵であり、吉のみを目指してもそれを得られない場合があるし、反対に凶に遭ったことが結果的に人生の経験に活かされる場合もある。
そもそもすべての現象に吉凶などは、本質的にはないのだ、すべての人々に60甲子の命運は平等に廻って来ている。ただ60甲子の命運がどの順番に産まれたかによって個人的な良し悪しがそこにあるだけだ。個人的な主観から観たとき、初めて運命と呼ばれる概念が生まれてくる、といってよいだろう。これが子平という推命術の正体だ。
奇門遁甲を用いるということは、天地の自然のありようと融合し統合しようとするものである。そこには、邪念や妄念が入り込む隙間はない。純粋で透明な意識でなければ、空間と統合することはできない。だが、空間の本質には穢れも否定的なものが何もないのだ。だから、あるがままにその空間のエネルギーと自分のエネルギーを統合して行けば良いのだ。
そのとき、九遁や返首、守門の吉格であれば、速やかに顕現が展開して無から有が産み出される。つまり、カルマ的な物質化現象が顕現する。(この現象が起きるには個人差があり、時間がかかる場合は、奇門遁甲の運用における精密な教誡がある。テーマや人によっては風水や家相や方位を併用する場合がある。)
自分の本性を悟り、その潜在的可能性を実現するために奇門遁甲は存在しており、これが奇門遁甲の真実の運用法だ。