二元的なアプローチによって本質に回帰しようとすることは、人間の本来のありようを如実に示している。
60甲子は、すべての人間が平等に体験するものである。時間と空間が織り成す、還暦とは、人間として60甲子のすべてを経験したことに他ならない。人生の甘きも苦きも共に味わいきったのである。
子平はまさにこの60甲子が人間に与えるありようを示したものに過ぎない。60甲子からなりたつ命運のなりたちによって個における人生の富貴貧賤や禍福が明らかになる。
これは人生における二つの視点から主観を設定しているためである。格局と用神というものを主観として人生を観ると社会的な人生の成功や失敗や富貴貧賤といった概念に支配されてしまう。
しかし、もう一つの人生の絶対的主体(体神)を見出したとき、人は人生で顕れてくるすべての現象の吉凶禍福を超えたところに人生の価値を見出すようになる。つまり、社会的な成功だけが人生ではないし、社会的な価値観に縛られることなく人生を楽しんで行く道を見出す。
これこそが子平が説く絶対的主体というものであり、誰もが絶対破壊不可能な誰もが羨望する絶対的対称性と対面しているのであるが、それに気がつかず満足できなければ、無限の生を費やしたとしても満足することはないだろう。
つまり、悟れないのだ。すでに絶対的主体も絶対的対称性も獲得しているといった見解に立ったとき、本来の自分のあるがままの立場に立ったのだ。そのときにこそ本当の人生のありようがみえてくる。運命学で言うならば、命を悟ったのである。
これは明らかに仏教で説く悟りと寸分の差はない。ただ悟りに向かうアプローチの違いに過ぎない。子平は、時間と空間といったまったく清らかな空なる元素をもとに人間の運命を推しはかろおうとするので、そこには、一切の浄・不浄といった概念は存在しない。
子平は、時代や時間と空間を超えて純粋に真実に人間のありようを示すことができる。子平原典の『百章歌』『滴天髄』は、そこに当世の価値観を顕わにすることで、人間の富貴貧賤と人生の禍福を明らかにしようとしたが、すべての人が、すべての個としてのありようの本性に辿りつくために説かれた教えである。
子平は、すべての人々を悟りに向かわせるための占いといえるだろう。この子平という占いはすでに現代の一般の人々が考えている占いという概念の枠を遥かに超えたものであることを現代人は、新たに認識しなければならないだろう。
だから、子平を行うのに、正しい意図が、つまり、純粋な動機が必要だ。それは真実の自分と対面することであり、そこから純粋に悟るという体験に向き合うことになるからである。