心とは、常に現象と一致して顕われてくる。事の善悪や美醜に関係なく、すべては心が生み出している。人間は勝手にその対象を固定概念によってそれを掴み取ろうとする。しかし、心はそんなもので掴むことも支配することもできない。思考の構築物は幻影であり、心が投影したものに過ぎない。そこに人は意味を論じようとするが、それは煩悩を生み出す基になるだけだ。もともと意味ある行為などはなく、すべての行為の善悪という概念すら消え果たところに精髄である光明が存在する。
意味があるとか意味がないということを棄て去ったとき、中庸の真実が浮かび上がってくる。中庸を強調した教えや真理を強調した教えに意味はない。知恵とは、知識や思考を弄くり回すことではなく、ありのままの現象を素直に受け入れることだ。対称に酔ってしまったとしてもその対象に支配されることはない。ただお互いのカルマや思考が戯れているだけで、恋愛も思考が生み出した幻影であり、酔いが醒めたとき、陶酔が幻影であったことに誰もがきずく。しかし、それを素直に楽しめば何の存念の痕跡を残すことはない。
心こそがすべてを生み出す王であると知るならば、それを対称化したところに神が存在する。しかし、その心すら思考の構築物であり、その神も幻影に過ぎない。その神を信じることは、幻影が幻影を崇拝しているようなものであり、すべてが錯誤に当たる。
つまり、見解を持たないことが見解であり、執着に落ち着く場所などない。心は執着の居場所を求めて彷徨い続けている。しかし、生み出されてくるものはどんなものであれ等しく空である。だから執着不能なところに執着するのである。そこには何の局所性もなく、心の落ち着く場所もない。常に心がふらふらして定まらないのは、リクパと意識が一致していないからだ。だからこそ『金翅鳥タントラ』のように執着不能なところで励むのだ。
自然の生き物はすべてあるがままに生きているが、人間だけが自然と調和せずに心が勝手に自然を弄くり回している。人間だけがあるがままに生きていないことがすべて我々の目の前で生起している様々な問題を産み出している。だからといって人類がみんな原始人に回帰しろというのではなく、自然と調和した生き方に回帰すればよいのだ。それは五術六大課を基とした生き方にも通じる生き方ともいえよう。