人間の執着をすぐさま断ち切り、煩悩やカルマの障害を克服するには、厳しい戒律を課すのが最も効果的だ。かつてブッダがおこなったような出家が理想的だ。しかし、それは悟りに至るある段階の教えに過ぎず、修行や悟りそのものではない。
人間は肉体があるがゆえに執着してしまう。すべてが二元的な在り方の内に閉じ込められている。これが輪廻であるからだ。それを解き放つには、三昧の境地を悟ったからといってもカルマと煩悩の浄化にかなりの時間と修行が必要となる。最終的には意識を完全浄化しなければ、修行は完成しない。
みな修行の途中であり、自らの三昧を見出して行くほかに道はない。何かをしなければダメだというような見解は、単なる商法行為に過ぎない。そこには何の価値もない。自らのロジックの中に引き入れることで、利益を生む方法が商法であるからだ。しかし、それが真実の教えであれば、まったく話が違ってくる。反対に真実の教えであるように振舞うことで、意識を支配しようとするのが、宗教の正体だ。それは真理という概念の中に縛られている。
人は生きているのではなく、ほとんどの人々が何かを依存して生かされているようだ。そこから離脱するためには、受容も拒絶も不要だ。あるがままの自分に立ち返る意外にその方法はない。つまり、二元的な方法によってそれを解決することはできない。二元的な立場で存在していると考えている以上そこからの解脱は不可能だ。まずその見解から離脱しなければならない。
悪も善もその人が選んだ状況によって等しく顕現している。どちらを選んで生きたとしても輪廻の中にいる限り、結果は等しく同じだ。善を為すことや悪を為すことが問題ではなく、その人の心がそれを正しく判断できているかというのが本当の知恵である。
知恵がないから人は挫折し失敗する。知恵を持って行為することこそ、それ以上の行為はない。それでも失敗するとしたらそれは乗り越えられない運命やカルマであるからだ。その知恵を輝かす教えこそ無上の教えであり、すべての限界を乗り越える無上最上の教えなのである。