心とは、人の心を映し出す、心とは、対象に執着したものしか映し出せない。しかし、心もまた顕現に過ぎないのであるが、心を浄化するということはどういうことだろう。
ある人は神仏やラマに供物を捧げることだと想っている。
ある人はマントラ(真言)やお経を唱えることだと想っている。
ある人はブッダに奉仕することだと想っている。
まして自分の欲望や想念を成し遂げよう想う人は、確かに仏教的観点からすれば、不浄といえる。問題は当人が不浄なのか清浄なのかすらまったく観察していないところに問題がある。
人は、物事を映し出してそれと同化してしまう傾向がある。その対象物が善であれば善を為し、その対象物が悪ならば悪を為す。
問題は映し出されたものに同化して自分の顔や姿がどのようになってしまっているかを直視する必要があるだろう。
行為の善悪を思考すること自体、裸の自性を穢していることに気がつくだろう。
だから把捉せず放下することが供物となる。
何も語らない寂静な不動の境地がマントラとなる。
無行為の活動が原初的知性の障害を(穢れ)取り除く。
ゆえに立派な行為も悪なる行為も平等であり、あるがままでないことが裸のリアリティーを穢しているといえよう。あるがままであれば、何にものも汚すことはない、なぜなら菩提心はまったく染みひとつなく清らかであるからだ。
菩提心こそ清浄な心であり、それと我々の心や意識が不二となったとき心は完全に浄化される。したがって二元的見解に陥ったとき、心はすでに汚されてしまっているのだ。
人の心を汚さないようにするには、まず自分の心が汚れないようにあるがままに生きて行く他ないだろう。
宗教行為ですら我々の心を汚してしまうのだ。だから正しい認識活動と無思考、無行為の活動によって原初的知性を目覚めさせ、自性に住しながら何ものにも汚されないという確信がすべてを浄化するのである。