知恵のカッコウ(リクパィ・クジュク)
世界の多様性は、その本性において二元性を越えたものでありながらも、(個体性をもって現象する)その個体性そのものは、心がつくりあげる概念の構成からは自由である。
如実なるものを思考することさえせず、ありのままにまざまざと現われた多様な現象はそれ自身においては絶対的な善なのである。
存在は自ずから成就しているのであるから、努力によって何かをつかみとろうとする心の病気の根を絶って、あらゆるものがそのままで完成状態にある、その中に無努力のままにとどまることが、私の教え。
運命学には二つのカテゴリーがある。
原因の乗
結果の乗
「かくあるもの」とは、概念によって認識しようとすると意識が働く、
社会的・家庭的・個人的・文化的・思想的・宗教的・学術的な要素が概念を構成しようとする。
そのとき、個が全体の中でもっている運命的な多様性を考慮すべきだ。それを否定したり、無視したところにリアリティは存在しない。
個の存在、六大課が示すものは、
個体性(個人)の多様性 ローカル
全体性(世界)の多様性 オール
であり、運命というもの、現象というものを捉えようとすると、
かくあるもの、つまり、概念化してものを認識しようとするとき、二元的な見方で捉えようとするのだが、我々の心は、すべての存在や個の存在をまるごと認識することは所詮不可能だ。ただいえることは、すべての源泉は二元性を越えて存在していることだ。
心が作り上げる概念は、思い込みやロジック、システム、テクノロジー的なすべての思考は、かくのごとく現われたすべての現象から自由である。つまり、その現象を束縛することも、支配することも、操作することも、特定するすることも、区切ることも、破壊することも、絶対不可能である。そして言葉で言い表せるものでもない。検索不可能であり、表記、数量化することはできない。
如実なるものを思考することさえせず、とは、対象化されてしまった概念にさえとらわれることがなければ、概念の再構築は、おこなわれることはない。つまり、それすら、越えたところに裸のリアリティは存在するから無思考でなければ、それを体現することができないのだ。現象と概念はどこまでいっても平行線であり、その関係を切り離したとき、始めて真実がみえてくる。これが心と心の本性の違いである。
まざまざと現われた現象は、あるがままに自己顕現したものは、つまり、目の前や夢やリアルに自覚したもの、或いは自分の未来に関することが現われたとき、
善悪を超えて現われている。善悪の価値判断を超えたところでそれは起こっている。しかし、人は善悪、吉凶、順悖といった形でものごとを見る習慣ができてしまっている。
存在そのものが、すでに自然成就しているので、何かをつかみとろうとする努力は、すでに心の病気であり、本性を見誤った行為であるから、あらゆるものがそのままで完成状態にある、その中に無努力のままとどまることが、私の教えと『リクパィ・クジュク』は説いているのである。
リアリティの本性に従ってリアルに生きることこそ、ゾクチェン・セムの教えの心髄であり、無努力、無思考、あるがままといった行為はすべて人間の本性に本来備わったものであり、それが自然に発露したものであり、それが教えであった、といえよう。(つまり、リアリティの本質に迫るために子平も遁甲も使ってよいのだ)
そのリアリティの本性は、智慧そのものだからその中にとどまることは、もうすでに解脱を果たしている。なぜなら、存在そのものが自覚した智慧とともにあるからだ。これを土台の透明性ともいい、すでに心は常に、心の本性の中で三昧とともに覚醒している。
『リクパィ・クジュク』の訳文は『セム2号』から引用致しました。