個人ゆえの煩悩というのは、誰にも理解できないものであるが、智慧というものは、誰もが理解できるものである。
なぜだろう。煩悩とカルマは、極めてローカル情報であり、その置かれた人でなければ絶対に理解することは不可能であろう。それは言葉や概念によって言い表せたとしても、その苦しみは味わったものしか、体験したことのある人にしか、その本質は理解できない。
激しい突風の中では、すべては剥ぎ取られ、引っぺがされる。メッキは剥げる。つまり、ウソはバレる。なぜなら、本当のリアリティとは、そのようなことを指す言葉であるからだ。何ものもごまかすことはできない。
いかに人間は表面を飾り、内面に欺瞞を抱えて生きていることか。それは現実的な価値基準によって自分も他人すらも狭い壁に押し込んでいるからだ。その見解を破壊できなければ、そんなものは放っておいても自然に破壊されていってしまうだろう。
我こそはブッダの教えを信奉し、中道の教えを、真理をスローガンにして説いている輩は、ブッダの心髄をなにも理解していない。そのような輩の説く教えは、何の意味があるのだろうか。そんなものは誰も必要としていない。
野に咲いているものや、自然に自生しているものに、何らかの作為する行為ことこそ、大きな穢れある行為だ。そのものの本質や本性も自性も、汚していることを自覚しなければならないだろう。
そういったものは人や環境を害するものに成り下がってしまうのだ。それに触れたとたんに極度の汚染のため病を発症する危険性すらある。
一時、目の前から現象が消えたからといって、眼の前から排除したからといって、悟りに至ることはまずない。償わなければならない。その意味がわかるならば、しかし、それすらわかっていないものに、それを求めることは、愚かなことかもしれない。しかし、それは許されるべきことではないので、放置、放任してすむ問題ではない。それを実行しないことは、自らのカルマの負債を何も解消していることにはならない。そのやりかたはまちがっている。なぜなら、何も解決に至っていないからだ。その行為そのものがサマヤ誡をさらに汚している。
それはすべてリアリティの本質を見誤ったからだ。正しい道を示すことができなかった自らの過ちを認めるべきだ。悔い改めるならば、謝罪すべきだ。自分の犯した罪を自覚しなければならないだろう。
そんなものたちが真理を説くことなど不可能なのだ。なぜなら、存在そのものがすべては完成しており、それ以上の完成を求めることがすでにまちがっており、それはすでに病気であるからだ。
そのことを理解せずに、まだ努力している人々に告げなかればならない、愚かであると!いまある、あるがままの存在のありようを認めることがなければ、劫の間進んだとしても、真実の悟りであるクンツサンポの透明な光を見ることは不可能だ。なぜなら、あなたは、すでにブッダと同格であるからだ。それを悟っていないからだ。
求めるものは、そこになく、すでに完成を果たしている。それを見ずに人々は業火を燃やし続けている。それが人間の正体なのだから。
土台の透明性と呼ばれる自己認識がないものは、ただの情報であって、自己に直接的な関連がなければ、智慧とはいえない。ロジックやマニュアルが言わせた言葉と本質から出た言葉はまったく違う。その違いはとても重要だ。
この文章をFさんならびにいまだに理解できていない人々に送る 阿藤 大昇