教えの伝統は、軽々しく書き換えてはいけないし、軽々しく伝えてもいけない。破戒僧ともいうべきものが説く教えを支持することは、サマヤ誡に反する。なぜそれがダメなのかというと、それらはすべて教えの血脈による神聖な伝授の力を持っていないからだ。まずその教えでは真実の悟りに向かうものではない。言い方を変えれば、真実の悟りをもてあそんだ偽りの教えに過ぎないのだ。
教えを説くとき、前のバージョンと自己の見解を明確に区別しておくことが必要だ。伝承や血脈を汚す、つまり、サマヤ誡を犯すことになるからだ。それすらわからずに行為に至っている(宗教行為といえるようなものではない)愚かな教えに従う人々は、サマヤ誡を破ったことによる不慮の災難に常に見まわれていることを知るべきだ。それこそ魔の教えと呼ばれるものだ。
それは一時も安らぐことのない、解脱にふれることさえない魔の教えとなる。魔の教えは必ず破壊されるか、自ら自滅していくだろう。
魔の教えとは、自分から災難を呼びよせながら、それを払うための祈願とその浄化行為を永久に繰り返さなければならない。その行為がすべての苦を生み出す原因となっているのだ。つまり、その教えでは、その苦しみの連鎖を断ち切って輪廻から脱出することはできない。
苦行といったような宗教的リハーサルは、すでに無意味なものであり、そのような宗教的演出すら自性を汚すだけに過ぎないのだ。だから宗教行為は、解脱や悟りの境地とはまったく無関係なものであるのだ。既存の様々な宗教行為は、菩提心の教えが語っている広大な真実の一片すら論じていないことに気がつかなければならない。
残念ながら愚かな教えを抱く者達は、概念の教えに支配されてしまうのだが、最も重要な決定的な違いは、身体や意識に関する自己顕現に問題があるのだ。
そのような人々は、脈管・ルン・ティクレがすべて三毒によって汚されきっているので、清浄なブッダの顕現を見ることも感じることもできないのである。この浄化法を持たない教えは完全にリアリティの本質を見誤っている。つまり、あるがままではないからだ。煩悩を増大して、煩悩の顕現に振り回されているだけに過ぎないのだ。それによって清浄な顕現の教えにすらふれることができないのである。(つまり、人は身口意がすべて煩悩に汚染されおり、これをどうやって浄化に導くかが、今の筆者が頭を抱える最大のテーマである。なぜそれが困難なものであるかと言うとその当人がまったくその事実を認識、自覚していないというこが重大な問題なのだ)
それを克服するのに『ゾクチェンの教え』には、こう書かている。
ゾクチェンの「ミヨワ(不動の境地)」にいたれば、どんな動きにもさまたげられなくなる。カルマの薫習にしたがって動き、二元論的な意識や感情作用を支えているカルマのプラーナ(「レルン(業風)」の運動を含め、どんな動きによっても、妨害されなくなるのである。
『菩提心 金翅鳥タントラ』第8章より
清浄と不浄を識別する思考を捨てることによって、真実を追究しなさい。
なにものも捨てることなくすべてを結ぶ行を、五無間にわたって行いなさい。
微細なる部分も同じものとして区別せず、それを消滅させるのが、最高のサマヤ戒である。
すべての概念を突き抜けた存在を見出すことが究極の自己顕現であり、自らを象徴し、存在意味を満たすものだから。それは誰もが認めるものである。それをブッタ、つまり、根本グルと呼ぼう。