このブログで、阿藤大昇は、何をしようとしているのか?そして何故、阿藤大昇となったのか述べなければならない。
まず、すべての「魔の教え」を破壊することが、ATOizmのテーマである。魔の教えとは、占いで、言うならば何も真実を語らない占いなど誰も必要としていないし、究極の果である解脱に向かわない教えを平然と説いている人々にその鉾先が向けられているのだ。
その根本は、人間の心が概念化してしまった幻影の構築物をすべて破壊して、裸になったリアリティの本質を見ることに他ならない。
運命学やすべての教えには次の二つの乗り物がある、
原因の乗 存在の原理
結果の乗 存在の開放
しかし、この教えのほとんどが中途半端な教えが説かれてしまったので、大半の人々はリアリティの本質を見誤ってしまったのが今置かれた我々のリアルな現状だ。
人間が本来求める道も本来に帰すべき道もすべて情報操作され、行くべき道を閉ざされてしまったというより他ない。
ときには概念の教えに阻まれ、ときには、リアリティの本質を見誤り、対象に支配されたり、自らの煩悩に翻弄されて、自らの人生の意義すら見誤り、魔の教えに支配されることもあった。
筆者は結局、自らが行くべき道を見出すのに20数年間も人生のときを無駄にしてしまった。
今までであったどの教えも中途半端でけっして解脱や真実の教えを、真実の自分を写し出すものではなかった。
それはすべて真実にたいしての情熱や熱意が十分ではなかったといえるのだが、問題はそんな単純なものではなかった。
悟りとは、みな単純なものであると思われがちだが、そう簡単なものではなかった。深遠な悟りとは単純ではあるが、そう簡単に把握できるものではない。なぜなら、本人がリアリティの本質に至ったかといことだけが問題となるからだ。
リアリティの本質にしたがってリアルに生きるには、差し引き無しのあるがままの自分を見出す必要がある。
そこに至るにはどうも個人差があるようだ。つまり、過去世の輪廻における経験が大きな要因となっているようだ。
概念や常識によって否定したり、無視したりすることは、誰でも簡単だ。しかし、その本質を見出すには苦痛が伴う。その苦痛を本当に乗り越えたものが、本当の真実に出会うようだ。
もう一つ重大な問題がある。自己顕現についてである。今置かれた自分が、
リクパ(明知)にあるのか? 清浄な顕現を見ているのか
マリクパ(無明)にあるのか? 不浄な顕現を見ているのか
をはっきりと区別する必要がある。自分が今どちらの顕現に属して生きているのかを自覚することはたいへん重要だ。それすら意識できなければ、悟ることは非常に難しくなってくる。
顕教であれ、密教であれ、ゾクチェンであれ、存在の開放の教えを説いたものであるが、その教えのエッセンスのみを学べばよい。それ以上のものはその教えにはない。
サマヤ戒というのは、一種の精神支配によって引き起こされる現象であるといえよう。それは人間の良心を支配しながら罪悪感を増大させて当人に教えの魔界へと誘うものであるようだ。密教は、サマヤ戒を重要としているのは、心がテーマであることを悟ったからともいえる。しかし、そのサマヤ戒によって人の心を支配することは、根本的には無理があったのだ。
それは一種の精神的な契約(脅しや脅迫も含まれている)であり、それを破ったからといって罪に問われるものではない。悟るための一つの方便に過ぎないのだ。そこに悟りはない。悟る課程の方便なのだということを自覚しなければならないだろう。それに支配されてはならない。
一番重要なのは、戒律や方便や修習ではなく、悟りそのものにふれることに意味がある。悟れないのならそんなものは、棄て去らなければならない。なぜなら、それらは、悟るためにつくられたある概念に過ぎないのだから。
悟った人にとっては、そのようなものはまったく必要ではなくなる。なぜなら、それが本当に成就した存在であるからだ。
筆者、阿藤大昇は、自らのリクパ、つまり、自らの最高のグルであるサーマンタバトラの心の境地に目覚めたということだけは、ここに明かしておこう。