南華密教からダキニ密教へ 阿刀田達磨の誕生
筆者は幼少時に難病を抱えていましたが、今考えると当時の生活習慣によって矢も得なく病気になっていたことを最近になって知ることになったのです。田舎の家庭は、和食を主体とする食生活に乳製品などの欧米化した食生活が日本に入り込み、身体に良いと牛乳を飲みパンにはマーガリンをつけて食べ、江戸時代に脚気になってしまった教訓を忘れていつの間にか精米した白米を常食とし、精製塩や白砂糖やサラダオイルなどの調味料を使って味噌や野沢菜の漬物を作っていたため母と兄は糖尿病を発症しました。電化製品の電磁波による影響やその他の要因も考えられますが、筆者はそういった食生活の中で育ってしまったために知らず知らずに自分の血液を汚して難病を発症していたのです。筆者の病は骨に異常が出る病で二度も手術をしました。まさに血液の汚れが原因で発症する病なので体質を変えなければまた発症してしまいます。
筆者は当時その原因がまったくわからなかったので、宗教にその解決法を求めました。しかし信仰によってそれは解決しませんでした。その寺院や教団が勧める修行や供養を真剣に行いましたが、一向に成果を得ることはできませんでした。そんな頃、故張明澄先生の『南華密教西遊記』に出会ったのです。先生は新興宗教や霊感商法を生業とする宗教教団を痛切に批判しておりました。しかしその声は誤った信仰を行っているものにはまったく聞き入れられることはありませんでした。生前はじめて張明澄先生にお会いしたときに同門の山道帰一氏は、筆者と逢ったとき先生は筆者のことを次のように言っていましたよと山道さんは筆者に教えてくれたのです。「阿藤先生は識を悪いことに使っていますね!」という指摘でした。これは南華密教を学んだ先生や山道さんにしかわからないことであり、一般の少なくとも当時筆者が入信していた宗教団体の指導者や周りの朋友の友人たちですらその原因を指摘できなかったのです。
宗教団体は、布教活動よって利益を得ているために信者や修行者の意識をコントロールし、本人の思考力や判断力を歪めてしまっていることが原因であると考えられます。修行者は大抵解脱を求め邁進しており、脇目も振らずにその宗教の教えを奉じて功徳と福徳の集積を積んでいる、解脱は近いと勝手に思い込んでいます。それは仏教的に言ったら識を汚す行為であったのです。ゾクチェンの教えでは、人間の意識は元々純粋で穢れがなく、透明に光り輝いていると説きます。それにさえ気付くことができないのは自分の欲望に縛られているからです。特に修行者や信仰者は、解脱に大きな期待や希望を膨らせてしまうために多くを望み、しがみつき、求め過ぎています。こんな強欲な人々が宗教によってその成果を得ようとするわけですから限りなく仏教の道から反れていることに当の本人がまったく分かっていない、つまりまったく自分の素顔の状態を頑なに直視しようとしていないのです。
筆者の昔の修行仲間から特殊なお作法するので、来てみないかと誘われるまでに行った寺院がまさに先生の著著に書かれた「観音禪院」だったのです。入信者は解脱を求めてそれに乗じて解脱をビジネスとして提供しているのですからもっともたちが悪い寺院でした。その損害や被害は甚大なもので、客観的に見てもこれを黙示することは許されないとも思いました。しかし、筆者はそれが自らの悪しきカルマの顕現であると悟り、誰も憎まず、そこから真剣に解脱と向き合う、つまり自分の心と真剣に向き合って解脱の道を追及し、研究したのでした。そんなころ母の糖尿病が悪化し、合併症を発症したのです。当時筆者はチベット密教の特にニンマ派の教義に傾倒し「チベット死者の書」の研究中でした。やがて母は死にチベット死者の書で母の四十九日を送ろうと決心したのです。毎日朝と晩に死者にしか口にすることができない線香(食香)とロウソク(死者と繋がる唯一の方法)を立ててチベット死者の書の読経を欠かさず唱えたのです。筆者は読経していく内に死者だけではなく、我々の生きている者たちもその教えで解脱できることに筆者は気付いたのです。四十九日も大詰めに差し掛かったとき、筆者の知り合いの霊能者のKさんより連絡があり、霊能者のSさんが筆者に直接合いに来てくれたのです。霊能者のSさんは、筆者の過去世を語り、今ある状態は過去世の自分が憑依しているので、これを浄霊しましょうということでした。あくる日浄霊が執り行われ「はい!終わりました!」と肩を叩かれたとき、あれ程喉に詰まっていた痞えが取れ、その時突然額のチャクラが雷の鳴ったように大きく左右に揺れたのです。後で解ったのですが、この浄霊がチベット密教やゾクチェンの教えで説くところのダーキニーの潅頂だったのです。霊能者のSさんの霊視では、筆者の前世はチベットの尼僧さんだったらしく、かなり大きな寺院のそれもリーダーシップを取っていたというのですが、派閥の紛争に巻き込まれ経緯は解りませんが宝石をあしらったプルパで自分の腹をひと突きして亡くなったそうです。そしてその霊魂が転生した筆者に憑依していたというのです。人生には不思議なことが多くありますが、浄霊した後に霊能者のSさんにお会いしたとき、毘沙門天と不動明王とダキニ天が守護神として現れて来たとおっしゃったのです。筆者は元々過去世よりダキニ天が守護神としてついていらっしゃっているのにそれをお祭りしていないからその力を受けられなかったのだと霊能者Sさんは、自分が持っていたダキニ天の御札と共にお祭りする神具一式を授けてくださったのです。その時以来ある人の背中には神仏が映り、ある人の顔には地縛霊の盲者がついていることがはっきりと見えるようになったのです。そのころから故張明澄先生の生前書かれた手書きの秘伝書が自然に筆者の手元に集まってくるという不思議な現象が起き始めたのです。
今思えば筆者の求道生活は山あり谷ありで、過酷な試練が非常に長かったと思い返すことが出来ます。しかし、今は清々しく、どんな困難にもめげないで群衆を彼岸に渡すことができる筆者の運命を予見している『子平洩天機』の「文火温玉成大器」の予言詩が数奇な運命の現れを言い当てていると思っております。
筆者の新しい修行のステージは、浄化から戒律へと向かい今また善行としての新しい布教活動に突入し、子平大学とダキニ密教によって世の中の悩める人を救いなさいという故張明澄先生とダキニ天のお使いの故霊能者のSさんの激励だったのかも知れません。そして筆者の法名である「阿刀田 達磨(タツマ アトウダ)」が誕生したのです。ダキニ密教の潜在能力は未だ未知数であり、どんな形でブレイクしていくか筆者も予測不可能です。ただ言えることは、転生活仏は、筆者のような特殊ケース以外にも存在しているのではないかと考えております。今回この章の「修心編」を書こうとした動機は、いつもの神田の神保町の仏教専門書店に行ったとき、急に本棚の前で手が痺れ、手に取った本が『現代人のためにチベット死者の書』だったのです。筆者は以前より英訳本の『リクパ・ランドル』やハーバード・ギュンター博士の『パドマサンヴァバの教え』を日本語で翻訳したいと思っていたところなんと!この書の中で日本語に翻訳されていたのです。この書物の付近には偶然にも『パドマサンバヴァの生涯』や『虹の階梯(新装版)』が置かれていたのです。筆者は現在、ニンマ派のメンガクデの教えである、チナン・チティ・ヤンティ・ヤンサン・ラナメーの特にパドマサンバヴァのニンティクが説かれていると言われる21章からなるチティ・ヨガとヤンティ・ヨガを研究中であります。
見解の相違 運命学の見解と宗教的見解の違い
運命を論じる際には、運命学という学術体系があり、古来より人間の運命の在りようを観察して創られたのが、この運命学と呼ばれるものです。運命学や占いはよく宗教的な布教手段に用いられることが多くありますが、運命学と宗教的見解はまったく異なった見解を持ち、信仰や修行体系と混同される場合が多いのでこの章でそれを明らかにして行きたいと思います。というのもこの点を誤るとせっかく研究してきた占術体系が誤った体系に帰属されてしまうからです。
運命学は、どんなに高度な占術体系を持っていても原理は陰陽の二元論を出発点にしており、どこまで行っても有の思想であり、仏教のような空の思想ではありません。二元論を突き詰めて行くとそこには限界しか見えて来ません。これは我々が誕生して死ぬまでの時間単位を占いの起点としているからです。どのように生まれてどのような命式でどのような運勢でどのような風水に住んでいるのか、でおおよその運命の在りようが各占術体系の運命学によって見ていくことができます。しかし、その先にあるのは、どこまでも二元論の壁が阻んできます。これを打ち破り、乗り越えて行く方法が、いわゆる仏教の教えである仏の悟りにあると筆者は考えております。しかし、この仏教によって二元論を乗り越える方法が、仏像や曼荼羅を信仰の対象にするものなのか。神仏を対象化した信仰によるものなのか。経典を読み上げることなのか。それとも中観派のような思想を信仰するのか。密教修行者のような儀礼を信仰するのか。禅宗の修行僧のように座禅によって悟りを掴むのか。または原始仏教の修行者のように苦行をおこなうのか。それともゾクチェンの修行者のような特殊な瞑想法によって悟っていくのか、などの手段の違いが出できます。しかし、そのような方法で本当に運命学の限界を乗り越えられるのか。仏教的見解はすでに二元性を越えた悟りを説いていますが、ほとんどの修行者は、この二元性を超えることは難しく、運命学的な二元性を極めたものだけが、実体験として二元性を超えていける手がかりを掴む事が可能であると筆者は考えております。ある意味では、運命学の見解は、二元性に著しく執着しているので仏教が説く中道と呼べるものではないでしょう。
ここで一番重要なテーマは、運命学は我々が如何に時間の流れの中で生きていくかと言うことをテーマとしており、仏教は、如何に死ぬか(或いは覚醒、もしくは悟り、もしくは解脱、解放など)をテーマとしております。目指しているところに死を超えて生きていくという共通のテーマが共存しているように見えますが、両者はまったく違う見解で人生を見つめています。風水の陰宅や陽宅のデザインによって三代先の子孫をも繁栄させたり、難病を治療することも可能な良き風水で暮らすことで運勢を変える方法もありますが、方位術の奇門遁甲を見ていくと共存に向かうことなく敵を撃退する方法が説かれています。運命学は、ただ一人の生の時間枠のみを論じる為に個人を優先して他者を損なっても自分が生きられればそれで良いといった身勝手な考えがそこにあります。これは運命学に限らず一般の現代社会の我々の人生の在りようと同じ現象を孕んでおり、運命学の教えは現代の我々の思想に非常に近い類似点を見出すことができます。しかし、真実を説く仏教にはそのような二元論的な態度を取るのではなく、共存する道を説くことがテーマであるといえます。仏教を説きながら人々を阻害していくような教えを説く寺院がもしあったとしたらまさしく偽りの菩提心を説くものたちであるといってよいでしょう。
宗教をどのように考えていくべきか?
現代において宗教は如何なる意味を持つのか。苦しみを多く抱えている人が煩悩を解決するためにどのような方法があるのか。故張明澄先生は、宗教の特に仏教を積極的に取り入れております。仏教の如来蔵思想は、紫微斗数の主星を密教の主尊に置き換えて見たり、「三奇法」では八奇命(七奇一儀命)の分類を行って不幸な人生だったらそれを仏教や道教に救いを求めるべきだと考えておられました。事実先生は『南華密教西遊記』で仏教のそれぞれの経典を読んでいって人生のどういうときにそれを活用すべきかを事細かに書いておられます。人が死んでしまったときどうするのか?先生は『中陰度亡経』を読みなさいと書いておられます。中陰度亡経とは、つまり『チベット死者の書』のことであり、南華密教はチベット密教のニンマ派とカギュ派の密教の教えと仙道の東派の教えが見事に融合されております。『チベット死者の書』に関してはほとんど部分訳が多く、完全なる内容が日本語で翻訳されたのは最近のことです。その書は、チベット密教の祖でもあるパドマサンバヴァとイェシェ・ツォーギャルがチベットに埋蔵した経典であるとされており、『リクパ・ランドル』といってその中で非常に興味深いことが書かれております。この書は英訳が三回されましたが、日本語に翻訳されたのは、『現代人のためにチベット死者の書』が初めてです。タイトルは「裸のヴィジョンを通じて知性を見極めて自然に解脱する教え」であり、その冒頭部分を引用いたします。
自ずから純粋な知性である三身の守護尊に帰依します。
「裸のヴィジョン」とは、束縛のない直感により、すなわち何も媒介することなしに経験されるヴィジョンだ。このヴィジョンは、意識的に考えを押し進める傾向や無意識的に心にしみついている先入観など、あらゆる概念的な思考を完全に停止したとき、現れてくる。すべての神々は知性のものとしてまったくにして純粋だ。という考えが中心にある。よい意識、愛、信頼、自信、力、清らかさ、善などといったものは、この宇宙の強力な力の流れであり、それそのものが裸の知性だ。だから、あらゆる混乱や錯誤を取り払った後に。私たちが生得的に備えている善が現れる。深遠なるリアリティの中であるがままに深い平安を見出すことが、私たちに課せられた使命である。
ここでは、「寂静尊と憤怒尊の瞑想を通じて自然に解脱する深遠な教え」より、「裸のヴィジョンを通じて知性を見極めて自然に解脱する教え」が説かれる。おお、幸運な者よ、このように自ずから現れた知性を見極め、それについてよく瞑想しなさい。
サマヤ ギャ ギャ ギャー
この表現は、この教えが密教に属するものであり、誓願によって封印され、ダーキニーのような存在によって守られていることを表している。伝統的に教えの秘密を守り続けているということは、エリート主義でも師たちが教えを出し惜しみしているわけでもない。正しい教えを受けなければ誤解も生じやすいし、「自由を得るためには、どんな努力もいらない」「倫理による拘束も道徳も、心の成長もまったく必要がない」「だから何をしてもいいのだ」と勘違いされてしまうだろう。未熟な自己中心的な考え方をもつ者は、心の中に生じるさまざまな感情について反省することなく、思うままに行動してよいと考えてしまう。このような者は、自分自身に対しても、他の者に対しても、害を及ぼすだけだ。しかし、感情と憎しみへのとらわれから解放され、あらゆる生活態度や心の状態が相互に依存していると自ら見極めることができれば、この単純明快な教えはダーキニーによって封印される必要はもはやなく、修行を進めることができる。リアリティといえば、悪しきもの、脅威を与えるもの、あるいは無意味なものでしかないと考えるイデオロギーがはびこっている現代社会においては、一般の人々こそ、この非常に前向きな教えに耳を傾けるべきではないだろうか。
真髄
エマホー!
この言葉は、驚きと喜びとを表している。
ただ一つである心は、輪廻と涅槃のすべてに行きわたり、
根源的な本質ではあるが、認識されることはない。
輝く知性の流れは途切れることはないが、私たちはそれと出会うことはない。
本質のもつこの客観的な側面を理解させるため、
過去、現世、未来における持明者たちは、
八万四千のダルマの教えなど数え切れないほどの教えを説き、
この悟りそのものについて教えを説いた。
経典の言葉は空のように計り知れないほどたくさんあるが、
その意味は、知性を見極める短い言葉に凝縮されている。
これは、持明者たちが授ける直接的な教えである-
この教えこそ、時の流れから解脱する入り口である。
「これこそがリアリティだ!」という短い言葉で表される明快な教えこそが、あらゆる仏が説いたもろもろの教えの目指すところだ。人間の自我の錯誤はさまざまで実に複雑だが、それに応じて仏も慈悲の力を発揮して、さまざまに複雑な回答を与えてくれる。しかし、そうしたさまざまな教えに通した悟りがある。それは、すべての善、智慧、平安、有情をつくる原子や瞬間のすべての中に、常に存在しているのだ。ということだ。そして、最後の行では、あらゆる微小な物質の中や事物が存在するこの瞬間にこそ、すべての善や智慧、平安がある、と説いている。
知性を理解する必要性
ケイホー!
これは、私たちに注意を喚起し、喜びをうながす言葉だ。
幸運な者たちよ! よく聞きなさい!
「心」という言葉は、実に広く知れわたった言葉だけれど、
人々は心というものを知らないし、誤解しているし、知っているとしてもごく部分的でしかない。
心のリアリティを正しく理解することがないために、
数えきれないほど数多くの哲学的見解をつくり上げるのだ。
普通の疎外された人々は、このことを理解せず、
自分の本質を自分が知らないために、
三界の六道の中をさまよい、苦しんでいる。
心のリアリティを悟らなければ、こうした誤りを犯してしまう。
私たちは、目標を達成したいと考えながら人生を送っており、人生を生き抜くために必要なことを知りたいと望んでいる。しかし、これまで数え切れないほどの過去世において、私たちはあらゆるものを失うばかりだった。それもこれも、自分たち自身が本当はいかなる存在なのかを知ることがなかったためだ。自分こそが人生の絶対的な中心にあると考え、周囲の環境に抗って、なんとしても長生きしようとばかりしていた。私たちは自分たちの知性そのものがすべての事象を包括する強い力であり、最高の境地をすでに一体として達成しているということを、いまだに認識したことがなかった。だからこそ、私たちは常に怯え、戦い、抗い、苦しみ、そして、本当に目指すべきとはまったく逆の方向に進んでいたのだ。
声門や独覚は無我の境地のいくらかを悟ったと主張するが、
正確に悟っているとは言えない、
仏典や理論に結びつけてとらえるばかりでは、
純粋な光と一つになることはできない。
声門や独覚とは、小乗仏教の聖者のことを指す。彼らは、偽りの自己に耽溺するという状態から真に自由になっており、真実の眼によって現実をとらえている。しかし、その洞察は完全なものではない。その本性はいまだにゆがんでいるため、あらゆる粗雑なものや心の潜在的な構造から純粋な究極のリアリティへと変容することはできないからだ。
声門や独覚は、主客に執着することで、真実を見る眼が閉ざされている。
中観派は、二つの現実に極端に執着することで、その眼が閉ざされている。
クリア・ヨガを行う者は儀礼をともなう修行に執着することで、その眼が閉ざされている。
マハー・ヨガ、やアヌ・ヨガを行う者は、純粋な空間と知性の二元性に執着することで、その眼が閉ざされている。彼らは二元的ではとらえない世界を二元的にとらえることで錯誤に陥り、
二元性を超えた世界にいたることはないので、仏性を得ることはない。
輪廻と涅槃は自分自身の心と切り離せないものなので、
彼らはこの取捨の乗によって、輪廻の世界をさまよい続ける。
パドマサンバヴァは、主観と客観に関する知覚の二元論をとる小乗仏教を批判している。また、相対的な世界や究極的なリアリティを対比させる枠組みに執着したりしているという理由から、ナーガールジュナの説いた中観哲学に救いを求める人々(大乗仏教徒)を批判している。さらにパドマサンバヴァは、儀礼と観想の中に現れる神々と自分自身を相対的に分け隔て、二元的な態度をとるクリア・ヨガを行う密教行者を批判している。自分自身の心と偉大なマンダラが完成した揺るぎない純粋空間を分けて考えることで、二元的な思考を抜け出せないマハー・ヨガ、アヌ・ヨガを行う密教修行者をも批判する。
したがって、つくり出された存在は何もかもが無為の中へと吸収されていくので、
裸のヴィジョンを通じて、あらゆるものが自然な解脱に導かれることを知ろう!
そう、大いなる完成にあっては、すべてのものが完成しているのだ!
このとき、あるがままの解脱に熟達した究極の教え(アティ・ヨガ)の修行者は、あらゆる教えの頂点に達している。いわゆる修行を行わずとも、二元性にしばられることなくあるがままに二元性を超えた悟りを達成するという、もっとも高度な教えを実践しているからだ。これが、大いなる完成(ゾクチェン)の教えだ。
サマヤ ギャ ギャ ギャー
『現代人のための「チベット死者の書」、ロバート・A・F・サーマン、鷲尾翠訳、朝日新聞社』より冒頭部を引用。
以上の内容は、子平や奇門遁甲を学ぶことにも通じるたいへん参考なる教えが説かれております。なぜなら子平や奇門遁甲には、その占いの教えを守っている不可視の存在がいるからだと考えられます。教えの伝承方法としてその教えの創始者やそれを授けてくれた先代、つまり師匠こそ我が師であり、師なくしてその教えは現代に生き生きとした形で蘇らないとされています。そしてその教えはダーキニーのような存在が守っていると考えられています。自己中心的な修行を続けている者やものの本質がまだ見極められていない者たちにそれを悟らせようとする不可視の存在がいたとしたらそれがダーキニーであると考えられます。自分の修行や修学がうまく進まなくなる原因はまさにこのダーキニーが施した封印を解き開かなければなりません。子平や奇門遁甲の秘伝もまたこのような存在に封印されているため文字によっては伝えきれないものがあるのです。ただ本さえ読めば、秘伝さえ手に入れれば誰もがその術をマスターできるとは限らないのです。さらにこの『リクパ・ランドル』に書かれているパドマサンバヴァの説に従えばニンマ派9乗が説く、外道を除いた、
声聞 主客に執着することで、真実を見る眼が閉ざされている。
独覚 同
菩薩 二つの現実に極端に執着することで、その眼が閉ざされている。
クリア 儀礼をともなう修行に執着することで、その眼が閉ざされる。
ウパ 同
ヨーガ 同
マハー 純粋な空間と知性の二元性に執着することでその眼が閉ざされている。
アヌ 同
アティ 一切知を得る段階、如来と同等になる。
チティ 三時がなく、金剛薩埵を目にする。
ヤンティ 名もなく、九乗の取捨なく、師の指導で完全解脱する。
つまり、小乗仏教の修行や中観派の人々やクリヤ・ヨガを行う者やマハー、アヌを行う者は二元性を超えた悟りに達することはないとはっきりと経典の中で明らかにされております。と言うことは日本に伝来した仏教で、一生懸命その道に励んでいる老若男女の善男善女は全部解脱できない?ということになってしまいます。
象を得て、その足をあとを探すように、三十億の宇宙を見わたしても、みつけることはできない。
心の外に、悟りを求めることはできない。
このことを理解しないで、心を外に求めようとする、
何かほかのものを探し続け、心そのものをどうして見ることができるだろう
たとえば、群衆の中の愚か者のように、
大勢の中で我を忘れてしまう。
事物の本性を見ず、意識に現れたものが心そのものだと知らなければ、
輪廻へと陥ることになる。
自分の心が仏だとみないのならば、涅槃を見ることがかなわない。
生と解脱、悟りと悟らぬこと、
これらは、一瞬にして見分けがつかなくなる。
「観音禪院」で被害にあった人々は、筆者も含め自分自身の心の本性と真の意味で向き合おうとしていなかったのではなかろうか?本当に必要なものは、対象化されないもの(非対称性)だったのではないだろうか?
この悟りについて
存在と非存在の八つの極端な見解から自由な、この悟りが、
どんな極端にも陥ることがないので、中道といわれる。
意識の流れが途絶えることがない悟りといわれている。
空という智慧の真髄を備えているので、
「如来」の真髄と名つけられた。
この重要性を理解したなら、あらゆるものを超え出る。
だから、般若波羅蜜とも呼ばれる。
心を超え出て、限界からも始まりからも自由なので、
大いなる象徴(マハームドラー)と呼ばれる。
この意味を理解するかしないかによって、
輪廻と涅槃のあらゆる苦しみと大いなる至福の土台となるので、
一切の土台と名つけられた。
誤った修行を続けた修行者は、自分が本当に仏になったと錯覚していたのではないだろうか。何かの象徴や対象物では絶対に仏には結びつかない。我が心こそが仏の心を理解できるのではないだろうか?
見解・行為・瞑想・結果
六つの極端な教えを解決するための教えとは、次のようなものだ。
さまざまな見解が数多くあるけれど、
この心をつくっている知性は、自然に生じた智慧なので、
見ることと見られる対象の区別はない、
見ることも見ないこともない、そのように見るようになりなさい。
見解を得た者を求めても、そんなものはありはしない、
このとき、見解の限界にたどり着く。
空とは完全に何もないことだ、という誤った考えに陥ることもない、
今ここにある知性からなる意識が輝き出す。
これこそが、理解することも理解しないこともない、
大いなる完成の見解だ。
さまざまな瞑想が数多くあるけれど、
知性は、ごく普通の意識に浸透しているので、
瞑想と瞑想の対象の区別はない。
瞑想を得た者を求めても、そんなものはありはしない。
このとき、瞑想の限界にたどり着く。
このようにして、究極的な瞑想と出会う。
迷妄がもたらす暗闇に屈することもない。
今ここにある無作為の意識が輝き出す、
これこそが、とどまることもとどまらないこともない、
無作為な三昧だ。
さまざま行為が数多くあるけれど、
自ずから覚醒した智慧にほかならない心滴の中には
行為と行為の対象の区別はない。
行為するのでもしないでもない、そのように行為しなさい。
行為を得た者を求めても、そんなものはありはしない。
このとき、行為の限界にたどり着く。
このようにして、究極的な行為と出会う。
行為されるどんな行為もそこにはなく、
心の本能からなる錯誤に陥ることもない。
今ここにある無作為の意識が自然に輝き出し、
作為をもって取捨を行うことがないので、
これこそが、清浄と不浄の区別のない、
完全に清浄な行為だ。
さまざまな結果が数多くあるけれど、
知性は、心そのものであり、自然に成就している三身なので、
成就と成就の対象の区別はない。
結果の達成者そのもののように成就しなさい。
達成者を求めても、そんなものはありはしない、
このとき、究極的な結果を見いだす。
達成するどんな結果もそこにはなく、
取捨する心配に陥ることがない。
今ここある知性が自然に生じ輝き出し、
仏の三身となって現れる。
こうして得た悟りは、原初の仏のもたらす結果そのものにほかならない。
ゾクチェンが説く、見解・瞑想・行為・結果は、まさに悟りを生み出す大いなる見解であると筆者も共感しています。これによってあらゆる異端説を打ち破り、どんな人でも本質に向かって精進して行くことができるはずだ!
仏教は各宗派の間において教義の真偽を論点にある時代よりずっと論争を続け今もなおその論争が続けられています。しかし、自分の心の解放をテーマとするのが仏教だと思います。論争ばかり吹聴するそのような心の持ち主が果たして悟れるのか?本当に困っている世の衆生を彼岸に渡すという誓願を忘れてしまっているのではなかろうか?と思うことがあります。自説の宗教で本当に人は、救われるのか、教祖や教団は本当に信者の解脱を望んでいるのか?教団や集団が意図するものと個人の解脱とはまったく無関係だと思います。本当に悟ろうと真剣に考えている人ならば、妥協や回り道や安易な方法取らず、自分の心の本性を直接ただ一人で探求していくべきだと思います。自己解脱、自然解脱への道はゾクチェンの教えが説くところであり、パドマサンバヴァのニンティクの教えは、チティ・ヨガからヤンティ・ヨガの教えの中で詳しく説かれており、チベット死者の書の教えの中でも説かれているゾクチェンのニンマ派九乗の教えの中に心の本性を探求するヒントが説かれております。ボン教のゾクチェンの教えではブーミといったある段階にいたった修行者に女神が現れて修行者を導くとされており、第一番目の女神は修行者の身口意の穢れをすべて浄化してくれる特効薬を持った女神が現れ、二番目の女神は善行や戒律を授けてくれるとされています。筆者にとって霊能者Sさんとの出合いは、まさにボン教のブーミが説く、第一番目の女神と筆者の対面だったのかも知れません。
時間の統合(チティ・ヨガの教えであると考えられる)
三世を一つのものと説く教えとは、次のようなものだ。
昔の出来事にとらわれず、「過去」という概念をすてなさい。
将来に起こることにとらわれないよう、心のつながりを断ちなさい。
対象をとらえることなく、虚空の中に心をとどめおきなさい。
瞑想もなくかといって何も瞑想しないのでもなく、
心を混乱させることなく、迷いが生じることのないように気を配りなさい。
意識を集中するのでもなく、心が混乱するのでもない状態で、ありのままを見なさい。
自分を知る知性、自分を知る意識、自分を知る光は、まばゆく輝く。
このように生じたものは、「菩薩」といわれ、
瞑想することなく、知識で知ることのできるあらゆる対象を超え出ており、
心の混乱もなく、その本性が自然に輝き出ている。
現象と空が自然に解脱しており、
すなわち輝ける空なる法身だ。
菩薩の道によらずに、仏性を得るならば、
このとき、ヴァジュラサットヴァ(金剛薩埵)を目にする。
よって、自分を知る意識である知性を心の本性として探求しなさい!
現代の日本は、環境汚染によって大気中の酸素の欠乏や水道水の汚染に加え口に入れる食物は農薬や食品添加物による深刻な汚染や食物の誤った調理方法による人体被害が大きく、とくに電化製品や携帯電話による電磁波の被害は今や深刻な問題を生み出し、我々の身体を徐々に蝕んでおります。現代医療は既に癌、心筋梗塞、脳梗塞など難病の治療に匙を投げ投薬や手術のみに頼る治療によって治せない医療となっております。すべての病の原因は血液を汚してしまったのが原因であり、血液の浄化を優先すべきです。このような状況の中で自分や自分の大切な周りの人々を守って行くことは宗教や仏教でなくても大切なことであり、自分を守るための専門的な知識や直接身になる情報は欠かせませんし、何よりも自分の智慧を働かせなくては、救えるものも救えない事態に陥ってしまいます。昔ながらの単純で素朴な教えによってもはや人は救われない状況にあることをまことの宗教家や指導者ならば再認識しなければならないでしょう。まず自分の健康を取り戻し、健康な身体にこそ健全な精神が宿るとされておりますから現代に本当に必要な宗教はそこから再出発すべきではないでしょうか。
筆者が以上に指摘した環境社会問題や対宗教改善問題や医療問題や食生活改善問題は、原因からよく考えて行けば、ほとんどがクリアできる問題であり、事前に災難を避けられることが可能です。それには常に自分の心を明るくして素直に開いて行けば、様々な出会いの中で自分を救ってくれる有力情報や力のあるものたちと必ずきっと出会えるはずです。筆者の今までの人生の教訓として医療や宗教や占いは決してビジネスにしてはいけないと思っています。ビジネスにしてしまったら苦しむ人々から彼らは自分の都合のいいように搾取するだけで、今の現状を見る限り、ほとんどの人々が窮地に立たされております。これからは理不尽な行為によって人々を苦しめる団体を規制して行かなければならないでしょう。そして占いは将来国家機関なり民間団体レベルで人々を救済する活動をしなければならないでしょう。
『子平推命の応用』より引用。
阿藤大昇
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- 運命を知る重要性
- 『子平淵源』が800年ぶりに復刻されました。日本にこの四柱の子平推命は伝来されていませんでした。宋代の木版本は韓国に現存しますが、その写本が日本にありましたが、誰もその原典を見い出して原典を邦訳や活字に直して世の中に今までこの重大な真実を知ろうともしなかった日本の占術會の著名な先生方はいったい何を元に研究し、どんな四柱推命を作ったのか遺憾です
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2018年7月11日 (水)
阿刀達磨の誕生
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