人は何か生み出そうとするとき、心象形性に問題が生じる。カルマや煩悩によってすでに変質、変形した心象形性がさらに大きく歪められるからだ。人は絶対的主体を把握していないと命運によっては、人は、絶対的主体が分裂した病気のような行動や行為を発生する。それは、あるがままの自分ではない別の何かになろうとしたためだ。
社会的強制、文化的強制、宗教的強制等のあらゆる束縛から自由になるべきだ。拒絶する(引きこもりや切れるという現象)ことなく、放棄することなく、あらゆる束縛を解き放つべきだ。
我々はあらゆる次元を共有してして生きている。そして我々には、すべての次元が平等に与えられている。しかし、わずかな次元の存在しか我々は認識していない。その次元をあらゆる次元を生きる知恵として還元すべきだ。ある次元の固定概念に縛られることなく、すべての次元を救う存在になるべきだ。
ある一定の教えのみによって心象形性を行うと本来の自分ではない別の何かになってしまう。それは自分が対象化した存在と見誤った段階から派生する。ある教えや見解に染まった心象形性は、同じタイプの人間を量産してしまう。しかし、それは天然の自分ではない別の何かになっている。
その状態に自分自身で、きずくことは、非常に難しいことだ。しかし、その生き方を続けていると物事が自然のサイクルで回りださなくなり、何もかもが上手く行かなくなり、最後は破局や限界に行き着くだろう。なぜなら、あるがままではないからだ。
自分の欲望の対象が信仰や宗教になってはならない。それは自分の運命のありようを無視した生き方だからだ。『滴天髄』では命を知らないということは、自分の進む道が見えない知恵がないものであると説いている。命を知らないということは、ただカルマや煩悩を成長させて作り上げた生き方しかできない。自分の運命の本質を悟った人は少なくとも欲望を満足させるだけのためには、生きなくなるはずだ。なぜなら、それこそが命を知るということだからだ。
どんな状況下にあってもあるがままの自分を見出して行く必要がある。自分自身を完全に制御し、すべての現象と統合して行くべきだ。それは三昧の境地にあるとき、それは現実のものとなる。
宗教とは、宗教家の為す求道による精神的満足が到達点であって、それ以上のものはない。人間の本来あるべき姿は、宗教といった固定概念によって特定できるような狭苦しい中で人は存在していないのだ。つまり人は広大無辺であり、それを縛ったり、制約することなど誰ができようか。
阿藤大昇の
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