煩悩とは、仏教において概念化された教えであり、我々の日常には、あまり関係ない教えであるであるように感じられますが、本当は、我々がまったく気がつかないまま日常で頻繁に起きている出来事なのです。
もし、何かこれが欲しいと想ったとき、それに支配されてしまったらそれは受容となり、貪りという煩悩となります。
もし、何か拒絶し、それを取り除こうとして怒りを感じたとき、これも拒絶しようとする怒りという煩悩となります。
よく、恋愛でいい人がいないと真剣に探しもしないのに愚知る人がいますが、ものの本質が見えていない、これこそが愚痴と呼ばれる煩悩となります。
仏教では、執着や嫉妬などを含めて煩悩のことを三毒や五毒といって人間の苦しみの輪廻の根源の基を生成してしまうものなので、忌み嫌い、顕教、密教も煩悩の放棄と煩悩の変容の道を説きましが、この煩悩を成長させず、苦しみの根本を断つにはどうしたら良いのでしょう。
まずその煩悩のありように気がつくことです。それには、まず自己観察する必要があります。
次に知恵を働かせることです。
究極的には煩悩も知恵も表裏一体で顕現しており、どちらも等しく人間の真実であるからです。煩悩を捨てる必要はありません。その煩悩のありようを見届ける必要があるようです。
煩悩こそ悟るための究極のテーマだといってよいでしょう。知恵があれば、煩悩に支配されずに生きて行くことができるようになります。その道を「座談会」で解き明かしましょう。