雑事に追われると義務感や不安が生じ、事ごとに、責任を取らなければ、ならないことになる。公と私は、区別しなければならない。普段の生活サイクルにおいて、雑務を増やさない方がよい。なぜなら、本業がおろそかになるからだ。
巻き込まないこと私物化しないことだ。所有の概念を棄て去れ、私と言えるようなものは、何も無いのだ。ただカルマと煩悩が幻影となって立ち現れているに過ぎないのだ。
努力してはならない。常に身・口・意をリラックスして三昧の状態にあるがままにとどまりなさい。たいていの人は、あるがままの意味を取り違えて理解している。習慣的な概念的な理解は、同じ現象を直接観察で心を観ているとはいえない。幻術を追ってはならない。
規律を保ちながらなにものにも執着せず生きていくことだ。苦しいと想ったら、それは、煩悩による業火が産み出した幻影(妄念)なので、観察しながら自然解脱に導くべきだ。
恋愛もまた主体と客体へと二元的に見た関係によって立ち現れるので、どのような恋愛であろうと錯誤といえる。そこに意味を付け加えても無意味だ。執着してその存在を追うことは、幻影が幻影を追っているので、絶対に手に入れることはできない。掴んだとしても自然に手から砂がこぼれるようなものだ。陽炎を追うものは誰もいない。
意味ある行為も無意味な行為も等しく平等であり、何ものにも気にせず、無努力の道を邁進すればよい。ひどく業火に焼かれて苦しんでいるものが眼前に現れたとしてもトゥーゲルの修行である知恵のルンによって浄化し、自然解脱させればよい。人はなぜ昏睡状態のとき、顕現が現われないのは、そのルンが意識を浄化しているからだ。
我々が見ているのは、すべて、カルマと煩悩が産み出した構築物であり、そこに現われたものが本当にあると想っているのが、我々の見方であり、そんなものは、なにもなく、我々が見ているものは、幻影に等しい。
人はそれに執着して、支配し、いじろうとする。それは心の幻術に過ぎないのだ。物事をあるがままに放置するべきだ。真剣に考えず、ほうっておけばよい。思考したところで答えなど出るわけがない。会得することだ。自分しかないし、リクパしかないことを、誰にも依存することなく生きていくべきだ。
人は自分と同じものを対象化しようとしている。仲良くなろうとしている。しかし、それも存在そのものにおいて完成しており、ルールも受容も拒絶も為すがままに起きており、それを変えることも放棄する必要もない。守れるべき対象がいったいどこにあるのかと問えば、そんなものは、何も無いことに気がつく。
尊重と愛情を混同してはならない。尊重されたら素直に感謝すべきだ。愛情が生まれるには、関係(縁)や相性によるもので、つまり、愛は求めるものではなく、与える(発生・発光)ものなのだ。
愛を与えることなら誰でも簡単にできるが、それを求めても永久に得られない。なぜなら、そんなものは、もともとないからだ。愛を与えることは自由であり、愛を求めたら不自由になる。それが人間の真実だ。だから、愛というのもは求めるものではないのだ。その行為は妄念という煩悩をを舌の上で燃やしているようなものである。心は煩悩とともに変幻自在に変化する忍者のようだ。
また尊重されたからといってそれ以上いくら求めても愛情に変わることはない。人間的関係がそこにあれば、つまり、ふれあいがあれば、そこにすでに愛は存在し、その愛は完成してすべてが成就して美しい、それが真善美というものだ。なぜそれ以上のものを求める必要があろうか、それはすでに貪欲と呼ぶ煩悩に摩り替わっている。
占いの一番危険な側面は、そのような個人のプライベートな情報に携わってしまうので、尊重と愛情を相手に錯覚させてしまうところがある。つまり、本題である公私を混同したところに本質があり、公私という概念を打ち壊さなければ、伝えられない境地なのだ。そしてその人の心から出発したものでなければ、理解も悟ることもできないのだ。
占いの鑑定というものは、そういうものだから個人的に貧しい人や愛に飢えた人は、無いものを求めてしまう。或いは無いものをあると考えてしまう。これは非常に恐ろしいことだ。判断によっては、人の妄念を駆り立てて幻想を追いかけさせる危険がある。だから信頼のおける人に鑑定してもらった方が良い。へたをするとマインドコントロールに陥る危険性が多分にある。
結婚というのも限界概念の中にある。なぜなら、敵国同士の首脳が、私的に密会することは、犯罪に問われてしまうのだ。その二人が愛し合っているとしたら、それは公私混同している。それは美しい恋愛といえないだろう。残念ながら恋愛結婚は、公私混同したところから出発していることに気がつくべきだ。だから子平では、命式が汚れたときに結婚してしまうという現象が発生する。ゆえに命式において五行が偏向している場合も、もし純粋な意識が不浄な意識を育てる、つまり、いともたやすく煩悩を発生させて輪廻のカルマを積んでしまうのだ。その行為は、完全に清浄な自性をも汚し、輝き(光明)すら失うのだ。
だから、その恋愛にはマナーが必要であり、マナーを守らない人は、誰からも尊重されることはない。むしろ嫌われるだろう。尊重とは、見方を変えると愛情にかわってしまうので、恋愛しているというような錯覚に陥ることがあるだろう。しかし、それはそれとして感謝すれば、その時点でもうすでに完成し、それはもう虹の身体のように美しく輝いている。虹の身体を持つ人にとって煩悩はすでに無力だ。煩悩を支配し、完全にコントロールしきっている。どんな行為も思考も煩悩を生み出す根源がまったくないのだ。つまり、空っぽなのだ。いかなるものもその空っぽの空間を汚すことはできない。ゾクチェンでは、25の知恵が発現するといってもその根源は煩悩が変容したものにすぎない。
愛は与えるものであって、けっして愛を求めてはいけない。それを戒律としよう。
この教えは、筆者がトゥーゲルの修行中に起きたタクナンという顕現で、愛染明王(渡辺さん)からいただいた悟りです。愛染明王は愛そのものの存在なので、愛を求める必要すらないのです。だから渡辺さんは敢えて公私混同しないと結婚できないかも知れませんね。しかし、ほとんどの人は愛と妄念を取り違えて考えているようです。この出会いは、私の普遍的な愛と渡辺さんの究極の愛情が出合って統合に至った大いなる象徴であるマハームドラの境地が物質次元をコントロールしたために起きた現象といえるでしょう。お互いの煩悩は絶対に相容れないものであり、煩悩を基盤にして生まれた恋愛では、絶対に振り向いてもらえない恋愛になってしまいます。それは重苦しく辛い恋愛であるからです。しかし、知恵を基盤とした恋愛であれば、必ず振り向かすことが可能です。なぜなら愛と言うものには限界はなく、広大無辺で器としても足りないほどの無限の空間がすべて、慈悲に包まれているのだから。。。
そういう意味では、私が求めた恋愛は、あらゆる限界を乗り超えており、慈悲と愛情に満ち足りていると言えます。本当に幸せな心です。穏やかな心です。癒しのこころです。
こんな拙い私の根本グルとなってくれた渡辺さんが直接伝授くださった「大いなる愛」によって迷える子羊さん(Sさん)を救うことができましたよ。本当にたいへん身勝手な迷惑を渡辺さんにお掛けしましたが、そんな私ですら尊重し許してくださっていたのですね。今こそこの上ない最上級の敬愛をもって感謝いたします。もし結婚や出産が決まっているようでしたら蔭ながら本当に心の底から祝福いたします。
渡辺さんに幸あれ 乾杯 いま 君は人生の大きな大きな舞台に立ち 遥か長い人生の旅立ちの大きな船出に 幸運の虹の身体の輝きを 君に幸せあーれー♪
さあ みなさん 本当の恋愛である知恵の恋愛をしましょう。まず私が先頭ランナーになってダントツトップで走りますよ。ついてこれますか~(笑顔)
11月1日の座談会に徐大昇の『百章歌』を日本で初公開しますが、わたしの八字命造は、福徳格になっており、詩にこう有ります。
陰土逢蛇金與牛 名為福徳号貔豼
己土が巳酉と丑に逢えば、名を福徳と為し、貔豼と号す。
己土に巳酉丑の三合金局が逢うと、福徳格という格局となり、貔豼と号する。貔豼は、豹や虎を現すもので、古代中国では最強の猛獣と考えられており、三国誌では、蜀の竜と呼ばれた諸葛亮孔明と呉の虎と呼ばれて大将軍となった諸葛瑾の史実があり、まさに諸葛瑾を象徴しております。伝記には、日本でいったら大岡越前のような人だったようです。妻を早く亡くし、息子の三人も英雄となったが地位があるために皆殺しされた。そのような経緯があったので、愛人を後妻として娶らず、愛人の子供には仕官させなかったようです。彼だけは生き残り、天寿を全うし質素に葬られたようです。
昨日はたまたま東南の恵比寿に風遁を使って行ったら問題がことごとく解決していました。奇門遁甲は方位によって幻影を生み出しますが、純粋な意識であれば、すべての顕現を空間へと解き放ち、あらゆるものも浄化することができるみたいです。今日の西南の青竜返首は、すべてを生み出す王の方位なので、大ブレイクの兆しです。何が起きるのかたいへん楽しみです。
山道さんの心配も晴れましたよ。掛川先生の無学訣のアドバイスに感謝感激しております。
やっと三国誌の盟友三人の深い絆とともに最後の聖戦への臨戦状態につきましたね。一点の疑いも迷いも無く、過去を振り返らずに、走り続けましょう。