我々は、現実生活の中で思いもよらぬ幻影や幻術に振り廻されてしまう場合がありますが、それは、対外的には、政治的なものや悪質な商法や宗教団体に多く見られます。そして内面的には、自分自身で産み出した壁や鳥かごによって非常に自分を狭く縛ってしまいます。
それは、今までの教育や宗教、さらには社会環境によって左右されますが、特に常識と宗教、つまり、文化的な価値観や伝統的風習は、時として、人間を大きく制約するものとなってしまいます。
そのような制約や限界は、特に自ら思考して造りだしているようですが、常識的な正しい判断を行うと本来の自分自身の純粋さを否定してしまいます。反対に自分の自性に正直に生きた場合は、社会や周りの人々に多大な影響を与えてしまうでしょう。
宗教的洗脳は、多くの社会問題を発生させてしまいますが、その幻影や幻術を断ち切るには、いったいどうしたらいいのでしょう。
最近、ヒーローアニメの「風魔の小次郎」がDVD化されて各地で放映されるようですが、このストーリーの最終章に風魔一族と新生風魔一族との戦いが描かれています。そしてその新生風魔一族のリーダーの夢魔という人物は、人の精神を支配して敵をいとも簡単に自滅(自殺)させてしまうという恐ろしい幻術をつかいます。この幻術によって風魔一族の屈指の風魔夢幻陣という幻術をつかう霧風は、夢魔の幻術に意識をマインドコンロールされたがために、いとも簡単に彼は幻影合戦の中で、霧風は、彼の術中にはまり、自らの心臓を自らの剣で串刺しにして果てしまいました。。
このように恐ろしい幻術と戦うために風魔の小次郎が取った秘策とは、彼の相棒である独眼竜竜魔にどんなに強力な幻術も拒否して受け付けない、そしてどんな影響も受けない、どんな幻影にも屈しない幻術をかけてもらったのです。
果し合いのとき、強敵の夢魔を操っていた黒幕の死紋は、風魔最強の戦士の独眼竜竜魔すらも精神支配してしまい風魔の五人兄弟の中の劉鵬、小龍、霧風は、その紫紋に滅ぼされたが絶体絶命の窮地に陥った小次郎は、危機一髪のところ紫紋が自分の幻術にかかったと見せかけた一瞬の隙(これをリクパともいう。なぜなら、まったく思考していない瞬間が誰にもあるが当人が気がついていないだけ)を突いたことで強敵の紫紋を討ち果たすことができたのです。そして、めでたく風魔一族の平安が保たれたのです。
このどんな幻術にも影響を受けない幻術とは、いったいどういうものでしょう?
考えてみてください。幻術とはすべて人間が生み出した幻影であり、その根本は二元的な見方から出発しております。私の考えでは、竜魔は、二元的ではない幻術をかけたのではないだろうか?と感じました。
なぜなら、人間は対象と触れたとき、意識が生まれますが、そのときすべての顕現、つまり現象を構築してしまうようです。それは、夢を見ているときと非常に似ています。現実ではそれ相応の物事や人物が現われてくるのです。
人間が意識を作る段階をゾクチェンでは、マリクパ(無明)といいますが、意識をつくる瞬間に二元的な見方に陥らなければ、その顕現は自然解脱します。これをリクパ(明知)と呼びます。リクパは理性的な心を遥かに超えたもので、これに対して心は、時間と空間や地点を超えることができません。つまり、心はどんなに深遠なものであっても限界の中にあるのです。そしてそのリクパというものは、完全に心が造りだす概念の彼岸にあります。これをゾクチェンでは心の本性(土台)と呼びます。
つまり、独眼竜竜魔は、小次郎にこのリクパという幻術というよりも悟りを与えたのではないのかというのが私の直感です。なぜなら、ゾクチェンには、そのリクパを見出す修行法として、テクチューとトゥーゲルの修行があります。
テクチューは、三昧の境地、つまり、リクパにとどまり続ける修行法であります。そしてその三昧のなかに自分の心、つまり、意識を置くことで、自発的に思考や意識を解き放っていくので、すべての意識的概念が造りだした幻影を徹底的に破壊していきます。そのような修行を続けていくと身体の粒子が微細になり、まさに微塵と呼ばれる境地に達します。その身体を消滅したり、一時的に消すことができるようになります。これは、先ほどの霧風がつかう風魔夢幻陣に似ているといえるでしょう。これを幻身と呼びますが、幻身は粒子が微塵となったとしても物質次元で顕現しているので、意識に情報を転写されてしまう恐れがあります。つまり、霧風が死紋に破れた原因は、この素粒子のクラスタの差ではないかと私は思ったのです。死紋の意識の方が霧風の意識のクラスタより細かかったゆえに霧風は、死紋の意識に支配されてしまったのだろう。可哀そうに。(これマーチンに所属するあなたのことですよ!聞いてますか?ロンブーの解かるかな!解かるかな?)
ごの幻身は、五大元素と深いかかわりがあるのです。(詳しくは山道さんと掛川先生のブログを参照してください)
空 識功
風 神功
火 気功
水 精功
地 力功
ゾクチェンでは、この五大元素と自らのリクパを統合したときにその元素を支配することができるとしています。例えば地の元素に統合した場合、物体を動かしたり移動させることができるようです。また水の元素と統合した場合は、水のエネルギーを支配できるので、水の上を歩いたりすることができるようです。空の元素と統合した場合は、空を飛ぶことができるようになると言われますが、ゾクチェンの最終目標は、五大元素によって縛られている人間を解放してもとの原質である虹に変容することです。それを虹の身体と呼びます。つまり、存在の消滅を説くもので、仏教的に言えば、解脱のさらなる解脱が虹の身体と呼ばれるものです。そしてその虹の身体は光へと還元されますが、活動的であるとも言われております。すなわち、虹の身体は、肉体的な死というものを経験する前に空間に帰して行くと考えられいるのです。(これって山道さんのお名前の帰一と同じ意味ですよね。山道さんが私を尋ねて初めて逢いに来てくれたときにすぐわかりましたよ(余談))
この五大元素からいくと霧風の夢幻陣は、水を霧に変えてそのなかに肉体を溶け込ませて消えるので、水の元素をつかった幻術であるといえます。それに対して夢魔は、おそらく水の次元より高い空の元素の識功レベルの幻術をつかったのではないでしょうか。夢魔は、夢魔と言うくらいですから夢を支配する能力があったみたいですね。夢はゾクチェンでは、バルドの教えに属するものであります。バルドの教えは、夢の中に現われるあらゆる顕現を自然解脱する方法をゾクチェンでは説きます。その方法ってどうやるのかって?簡単だよ夢の中でトゥーゲルの修行をすればよいのさ!えーそんな簡単に秘伝を喋っちゃっていいの?構わないさ!君たちが自分で自分を救ってくれ!えーできない!それだったら私のところにくれば教えてあげるさ!)。
霧風は、つまり、夢魔の黒幕である死紋が造りだした夢の中の幻影に引き込まれて、ここちよい夢の陶酔の中で抹殺されてしまったのではないかというのが私の分析です。(まさに夢の中で騙されてしまうというこれはゾクチェンのドラセルションと呼ばれる「石を金に」というタントラの話にそっくりだ)(一人で感動)
だからあの霧風が簡単にやらちゃったわけですよね~。(ちなみにマーチンはセラミックで土の元素の肉体を操り、信仰の対象となる念持仏によって精神を支配していますよ。おー怖(絶叫)
(この前、私のところにマーチンからの刺客がやってきましたが、ミイラ取りがミイラになって見事その幻術を討ち果たしましたよ。その刺客は、私がマーチンの幻術を解いてあげたのですが、自らの煩悩を肥大化して自滅しましたよ。これはマーチンが煩悩というものを何も解決していない証明であり、むしろ多くの信者たちは、その煩悩を煽り立てられて貪りの地獄へと引き込まれています。これって絶対犯罪だよね。ひぇーあまりにひどすぎる(残酷無比)、今その方は、私という精神的支えを拒絶し、煩悩のままに精神的メダボになってあの恐ろしいマーチンに出戻りになった見たいです。マーチンの洗脳の現状を報告させていただきました)
この事件に関しては、山道さんと掛川先生のご援軍とご助力があったことをここに記して置かなければなりません。(感謝感謝)
それに対してトゥーゲルは、光の顕現によって幻身を虹の身体に変容する術であるといえるでしょう。つまり、物質次元ではなく光の次元で顕現してしまうので、あらゆる意識の影響を受けることがなくなります。なぜなら、光は記憶を維持する土台がないのです。つまり、空なのです。そして尚且つそこから音、光、光線とエネルギーが放射するので、身体は透明な輝きを持った虹の身体として顕現するのです。おそらく独眼竜竜魔は、小次郎にこのトゥーゲルの術を施したのであると私は確信したのです。
死紋率いる「夢魔院(マーチン)」は、つまり、霧風や竜魔のように優れた最強の戦士ですらも精神支配して身も心も財産もそして使い物にならなくなった信者の命までも紫紋がやったように非常に残酷に抹殺します。すべてはその教祖に個人はおろか家庭や会社、国家も、地球環境までも徹底的に支配されてしまっています。これは非常に恐ろしい幻術だといえるでしょう。放置しておけば、被害者は続出するのは、火を見るより明らかです。
私は、ゾクチェンのトゥーゲルの修行を行ったので、小次郎のように夢魔(マーチン)の幻術の幻影に打ち勝つことができたのです。(これアニメじゃなくて、ほんとの話よ)(笑)
私の戦いは、その恐ろしい夢魔の黒幕である死紋の幻術を解く段階までに至りましたが、必ずや死紋率いる夢魔院(マーチン)の魔教軍団(六師外道は、成仏できない教えを説く教団のこと)を破壊し、打ち勝つ確信があります。なぜなら、私は虹の身体を得て、ブッタに等しい境地を得たのですから。(阿藤先生、頭がおかしくなったんじゃないですか?と想わないでくださいね)
さっきビールを飲んだら続編ができました。ご紹介しますよ。私は風魔三兄弟の次男で、名前に大がつくので、本編では、風魔大次郎と命名しました。(笑い)
なぜゾクチェンのテクチューとトゥーゲルの修行を行うと、そんな奇跡が起きるのかと言うと、つまり、五大元素を超えた「心の本性」という、リクパ(明知)に、三昧の境地に、あるがままで完璧な境地に、悠々ととどまるからです。それは人間の源泉の潜在能力として誰もが持っている普遍的な特性であり、当人が気がつかなくとも或いは気がついていたとしても自ずと遍在するものなのです。それはまさにすべての人々に遍照する太陽と同じような存在が個々の魂の根源に秘めてる途轍もないエネルギーなのです。その修行の深化によって、幻身を達成し、虹の身体を獲得し、最終的には、完全にその肉体を諸元素のエレメントに融解していくことが可能となります。もちろんマーチンが造りだす幻身は、所詮、外タントラのレベルを一歩も出てない悟り(いい加減に悟ってみたら!私の意見!これを所知障といって知識や宗派の見解によって悟れない深刻な煩悩のひとつに数えらえる)なので、テクチューの修行を行っただけで、マーチンの幻術を解くことができると想います。これは私の修行体験から出てきた言葉ですが、まずゾクチェンの加行から始めましょ。しかし、百人斬りに参加した人はすでに灌頂を終えていますよ。
テクチューの修行から始めましょうか?ご希望の方は「座談会」に参加してください。おっとそれはもう締め切ってしまいましたので、当日の二次会、三次会でお持ちしておりますよ。(どうぞいらっしゃてね(笑顔))
ゾクチェンのテクチューの段階では、鏡に自分の姿が映らなくなるというのは、実は方便であって、鏡に映し出された、自分すらカルマと煩悩が生み出した幻影に過ぎないと自覚するだけで、肉眼の眼にはやはり、自分の顔は、写し出されています。しかし、この段階においてはその幻影を幻影であると認識しているので、その映像に敢えて執着を起こすことは、以前より少なくなるはずです。
風魔の独眼竜の竜魔が用いた死鏡剣と呼ばれる幻術は、鏡に映った敵を鏡の中に封じ込めた後、その鏡を叩き割って、敵をやっつける幻術ですが、これはマーチンがやってる幻術に似てるかもしれません。つまり、人間を限界概念に閉じ込めてその人の人生すらもその鏡と同じように破壊しようとします。
しかし、ゾクチェンのリクパツェルという境地は、鏡に映った自分にすらまったく執着しないので、その竜魔の死鏡剣の幻術にかかる要因がまったくありません。つまり、自然解脱してしまうので、竜魔の幻術は、その人にとっては完全に意味すら失います。
トゥーゲルの修行の成果が出てくると、本当に鏡に自分が映らなくなり、遷化するでしょう。しかし、人間が死んで亡くなったとしてもその本体は、結果的には肉体的な死も虹の身体の死も完全に我々の肉眼(鏡)に映らなくなります。同じく死んだという事実があったとしてもその差は、我々の肉眼において同じように見えるので、肉眼、つまり、物体に強く執着している人にとっては、このゾクチェンの深遠な教えが自ずと隠された神秘となってしまうのです。
この問題は、顕現(現象)が独立自存の存在であると相手を対象化して見てしまったためにおきた現象なのです。我々はものを見るとき、主体と客体に分けていますが、顕現は常に自分の心と表裏一体となって顕現しています。つまり、独立自存の存在というものは、この世にまったく無く、だからこそ我々は目の前で苦しんでいる有情を自己投影することができるので、それを自己顕現であると理解して悩める人々を救うこと、つまり、利他を行うことができるのです。
ボン教のテクチューの教えでは、幻身の教えのすべてを以下のように説いています。
第一のものは、ゾクチェンの教えの中に誤った教えが紛れ込んでいるもの、
第二のものは、ゾクチェンの教えを誤って解釈したもの、
第三のものは、自動的にそれより先に進めなくなる誤った教え、である。
以上の文章は、以下の書籍から引用させていただきました。
さーあなたは、どの見解に属していますか?考えてみてください。真剣に。小次郎のように!
ゾクチェンのトゥーゲルの修行は、『知恵のエッセンス(ボン教のゾクチェンの教え)、春秋社』に載っていますよ。。。修行する価値があるかも~~~!上記の部分は、この書のテクチューの修行の冒頭より引用させていただきました。
次回は、聖衣星矢編を説きますので、楽しみに待っていてくださいね。ストーリーでは、ドラゴンの聖衣の紫竜がジャミールのムーに逢いに行ったとき、ムーは、五重塔を思念で動かすという話がありますが、これはゾクチェンのグルであるシュリーシンハの伝記に出てくる話なのですよ。シュリーシンハは神通の力で九重塔(ゾクチェンの九乗の教えを象徴している)を建てたとされています。(このひともしかしたら私の過去世かも?)