ゾクチェンの九乗の教えを理解するには、ゾクチェンのラマであるナムカイ・ノルブ氏の『虹と水晶(法蔵館)』を精読して読み込むことがポイントですが、ブログの読者にそれを求めるのは、酷くなので、その取っ掛かりの部分を紹介しましょう。
まず、顕教・密教・ゾクチェンの教えの違いを論じましょう。
顕教
小乗、大乗ともに、シュニャーター、すなわち空性の経験を目標として修行する。タントラにおいて、この空性は基本前提であり、出発点である。段階にしたがう教えにおいては、ここから出発し、上に向かって修行をしていく必要がある。これに対して、ゾクチェンはただちに最高の教えから始める。
密教
密教の各レベルは、すべて、金剛乗の修行であり、あらゆる現象は空であるという、空性の原理を前提としている。すべての密教修行は、この原理にもとつき、観想法は、個人のエネルギーを、宇宙エネルギーと再統合することを目的としている。
外タントラ、ないし低いタントラ
クリヤー・タントラ(行為のタントラ)
浄化の道のレベルにあたる。修行者は、守護尊が自分の外部にあり、また自分よりすぐれた存在であると考え、観想する。外的な行為に取り組み、悟りを得た仏から知恵を授かるように、またより高いレベルのタントラに取り組んでいく準備のために、みずからを浄化する。
ウパーヤ・タントラ(中間のヨーガ)
悟りに達した存在である「守護尊」を、自分と対等な関係にはあるが、自分の外部にあるものとして観想する。修行者は外的な行為のほかに、内的なヨーガにも若干取り組む。
ヨーガ・タントラ
これは、変容の道の最初の段階にあたる。修行者は、自分がその「守護尊」そのものだと観想し、微細なエネルギーの身体を使う内的ヨーガに取り組み始める。内的ヨーガは、上述の変容の道のすべてのレベルにおいて、一貫して使われる。
内タントラ、ないし高いタントラ
無上ヨーガ・タントラは、ニンマ派においては三つのレベルに分けられている。
アティヨーガ(原初のヨーガ)
アティヨーガとアヌヨーガは、ニンマ派だけに見いだされる教えである。アティヨーガはアヌヨーガの最終段階であり、ニンマ派において、段階を踏んで悟りに至る道の究極である。アティヨーガはゾクチェンとも呼ばれ、事実このヨーガによって到達する境地は、ゾクチェンとまさしく同じである。ただし、その境地に、変容の道をつうじて到達するのである。原初の境地は、九つの段階からなる階梯を踏みながらすすんでいく道の最終段階ということになる。これに対して、ゾクチェンそのものは、段階を踏まない道であり、直接、心の本性を開示する導き入れが、ただちにあたえられる。
アヌヨーガ(完璧なるヨーガ)
ニンマ派におけるアヌヨーガはアティヨーガへとみちびくものであり、ニンマ派だけに見いだされる観想法を使う。観想は、少しずつディテールを追いながら作り上げられていくのではなく、一瞬にして姿をあらわす。修行者はみずからがその守護尊であると観想する。また、ディテールよりも、感覚のほうが重要だと考えられている。
マハーヨーガ(大いなるヨーガ)
ニンマ派においては、アティヨーガが変容の道の究極にある。これに対して、ほかの三つの宗派においては、順を追いディテールにそって観想していくマハーヨーガの修行が、マハームドラ(大いなる象徴、ないし印契)の境地をもたらす。この境地もまた、ゾクチェンやアティヨーガの境地と別ものではない。ただし、その同じ境地に到達するための方法は、まったく異なる。
ゾクチェン
ゾクチェンは、顕教でも密教でもないし、あるヒエラルキーの中で、高いレベルにあると主張しているわけでもない。またゾクチェンは、段階的に悟りに至る道でもない。だが、ゾクチェンは自己解脱の道であり、変容の道ではないから、観想法は、修行の中心ではない。だが、ゾクチェンは限界の彼岸にあるから、他のどのレベルの修行法でも、補助的な修行法として用いることができる。ゾクチェンでもっとも重要な修行は、不二の三昧に直接入り、その状態にとどまり続け、完全な悟りに至るまで、それを深めていくことである。
以上、『虹と水晶』の本文より引用いたしました。
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密教は、身・口・意の口、つまり、エネルギーの側面を強調した教えであり、守護尊を本尊として対象化してしまうので、自分のエネルギーの投影を以下の段階によって統合していく。
クリヤー・タントラ 本尊 上下 修行者 上下の関係
ウパーヤ・タントラ 本尊 対等 修行者 対等の関係
ヨーガ・タントラ 本尊 同一 修行者 同一の関係
アヌヨーガ 本尊 変容 修行者 一瞬にして本尊に変容する。
マハーヨーガ 本尊 印契 修行者 大いなる象徴
アティヨーガ 三昧 不二 修行者の意識(リクパ)
つまり、本尊である象徴と一体となるマハームドラの悟りに至るまでは、物質的なエネルギーを統合することはできない。つまり、顕現をも意識をも浄化することはできないのである。
外タントラないし低いタントラのみをグルの指導もなしに自分勝手に行うと心象形成に異常が生じてくる。なぜなら、このタントラは、まだ到達点ではないし、加行ですら終えていないものが、この外タントラを行えば、どのようになるか、普通に考えてもその行為によって、エネルギーの修行のみで、人間の身口意のバランスを取ろうとするから、本人がおかしくなるのは当然だ。それを平然と責任を取る気もないものがロジックだけで、それを行おうとする。なんたることか、それは、人間といえるものなのか?自尊心が生み出した非情に傲慢な妄念にすぎない。それは、心の連続体に本当の慈悲と知恵が発現していないからだ。つまり、何も悟っていないという現実を正しく認識するべきだ。そのような偽りの慈悲では誰も真実の悟りに至れないはずだ。
(どのような密教の導師であれ、その人が放つ強力な祈念(想念)が発生するエネルギーは、人間のルン(神路)や意識(識功)を掻き乱し、霊子界のような無数の霊子線によって人を巻きつけ縛ろうとする一種の生霊による憑依現象だといえるだろう。これは素粒子レベルで存在するエネルギーなので、どんなに微細なものであっても人を癒すものではなく、一時的に人を癒したとしても結果的には人に善悪を与えるエネルギーなのである。つまり輪廻を生み出すものなのだ。)(聖衣に、同じ幻術(輪廻を生み出す霊死界?)はもう通用しませんよ!竜魔さん!これアニメの話です!)
どこに到達点を置くかが重要であり、究極の悟りを得ることを人生の目標にすべきだ。人生はブッタが説いたように無常であり、明日の命など誰も保障はできないのである。