概念を超えるには、術を超えるには、何が必要なのか?
自分の限界をまず知ることから始めるしかないだろう。
自分の限界を悟ることがなければ、個人的にも社会的にも成長していくことはないだろう。
一生自分の殻を障壁を自ら作って自らを埋めてしまう。これが二元論の輪廻の姿なのだ。
初めて出合った輝きを、掛け値なしに見た姿を、心にとどめた純粋さをあなたは忘れてしまったのか。
心の本質を、心の本性の扉を開くしかない。あなたは一生その心の扉を幽閉して生きるのか?
それもよかろう。それを選んだのであれば!
煩悩のままに受容と拒絶によって人生を見ている限り、死ぬまでその本性を理解しないであろう。いやバルドの中にあっても音・光・光線といった驚愕の中で転生は繰り返される。あなたに悟るチャンスも機会もない。なぜなら、その手をさしのべたにも拘わらずそれを拒否し続けているのだから。
ひとはこのように悟れない。ゆえに輪廻しているのだ。百人斬りの意味も解からず、原初の白いア字の価値も見出せない人々ばかりの世の中であることが、リアリティの本質を見誤ってる。
本当に苦しんでいる人を救うことができるのは、他でもないあなたなのであって、その自覚すらなければ、大切な人々はあなたからすべて去っていくだろう。もう取り返しはつかない。その事実を知ってからではもう遅い。
無意味な教えに翻弄されながら搾取され布施を強要され自らの財産すら捧げたすべての人々はすべて自分の欲望に支配され翻弄されたのだ。それを自分の心を閉ざして責任を転嫁し、自分は被害者ぶる。それこそがまったく悟りも努力も知恵もない愚かで非常に忌まわしい行為なのだ。それによってどれだけの純粋な意識が傷ついたかという現実を知るべきだ。魂がどれだけ悲鳴をあげているかという声をあなたは聞いたことがあるのか。聞こえまいあなた方の耳には真実の声が、マントラが届いていないのか。
悟りの大切な出会いやチャンスすら自分で破壊し、運命のままに翻弄された人々を誰も顧みることはないだろう。
傲慢な人々はまだ自分の行いに正統性を飾り、今でも人を騙し続ける人々は、悟る機会など永久にないだろう。
なんと(エマホ!)哀れで悲しい人々なのか!
幻身の悟りは、存在が一時的に素粒子化する。それに少なからず、解脱や悟りに近い感覚が得られることがある。しかし、それは真実の悟りではなく、真実に到達するものでもない。
虹の身体を得なければ究極の悟りを得たことにはならないのだ。
素粒子と光子の違いがわかるならば、あなたは悟れるかも知れない。あなた方が保持する幻の教えから離脱することができるかも知れない。そのような人々の誕生とその革新を見届け続けよう。それが私にできる唯一の宗教根絶のための教えなのだから。。。