人間の心の概念構成はもともと全体性をすべて包み込んで認識することはできない。つまり、過去現在未来そして全体性の中にある個の存在がどのように変化して行くのすら認識できない。
つまり、古代中国人がなぜ占いをつくったのか、それは人間の存在認識が如何に限界概念の中にあったかを物語っている。その存在を読み取ろうとして六大課をつくったが、それすら現象のある側面を映し出すに過ぎなかったのである。
その隙間を埋めるには、そのズレを修正する術を人類はまだ本当に把握していない。
なぜなら、どんな論理学も科学もある現象の側面を映し出すだけであってその現象を支配しようとしたとき、もうすでにズレが生じている。つまり、その手立ては現象と平行線を辿っている。それは決して交わることがないだろう。(これが術というものの限界なのだ。故張明澄先生の教えであった五術の限界なのだ。しかし、先生は、南華密教を説いていた。つまり、如来蔵の教えをそしてゾクチェンへ続く教えを説いてくださっていたのだ。筆者はそれによって救われたといっても過言ではない)
人間の思考の限界なのだ。人間がなぜ時間と空間を超えられないかというと思考しているからだ。概念の中に自分を閉じ込めている限り、その二元論的輪廻は果てしなく続く。
自分が概念化してしまった運命的概念は破壊してしまうことができる。今まで認識していた自分というものが、独立して存在していないのだ。
どういう人格で、どういう社会的立場にいるのかということは、すべて概念が構築したものにすぎない。まず、それを破壊することから始めなければならない。
概念構築してしまったが、ゆえに、本質が見えなくなってしまったものを取り戻すには、無知から認識してしまった、本当はないものをあると思い込んでしまったことだ。しかし、それが正しい見解から出たものであればまだよいが、まったく誤った認識活動から作り出された概念は、人間を害するものとなる。だから、その概念を一度壊してしまわなければならない。禅のような自己問答が必要だろう。
例えば、
これから上がるはずものない株を買おうとする人
盲目の恋愛に陥っている人たち
変なお守りグッズによって本当に救われたと思っている人々
変な占い師の誤ったアドバイスで貴重な人生の時間を無駄に費やしてしまった人々
金角銀角のように年中お金に執着し、お金がすべてだと考え、お金のためには人道的行為すら逸脱する、つまり人間ではなくなってしまうのだ。まさしく人間の煩悩が生み出した妖怪といえるだろう。(そもそもお金とは社会的概念が生み出した産物であり、これこそ概念構成として破壊してしまわなければならないものだ。なぜなら、紙切れに一文の価値もないからだ、なぜないものに執着してふやそうとするのか、目の前に現われた確実な財源を確保することの方が大切であり、なぜ何時入るか解からない財の心配をしなければならないのか。完全にサマヤ戒に反している。ガナプシャを行うか奇門遁甲の直符をつかって浄化しなければ、人間関係はますます悪くなっていく。このようにしてものごとは動いているという自覚をもって欲しい)
このような人々は、何も自分の本質を見ていないものたちだと言える。
現象と概念はどこまでも平行線だ。人間はそこにこじつけや人情やわずかな希望を託す。そこに確信がないからだ。そこに神や仏や救世主というものを対象化して自分の誓願を託そうとする。完全にリアリティの本質を見誤った病的な行為だ。それは自分も他者も家庭も地域も社会も国も地球も救うことにはならないのだ。むしろ自分の責任を他に転嫁した行為だ。まったく自己責任の自覚のない行為といえよう。
自分の本性を直接見ることなのだ。何かを媒体に見てはダメなのだ。
それを直観したものには智慧があるということだ。(単純に直観が大事だと言っていることとここで言ってことはまったく異なるのだ)
どんな概念にも汚されない純粋な意識を持っているからこそ、その真実を見ることができるのだ。
それこそが絶対破壊不可能な原初的知性の顕われであると言ってよいだろう。