人間の世界に本当に必要なものは、煩悩を静める教えであって決して煩悩を増大させる教え(筆者が今まで信奉してしまった教え)を説いてはならない。それが筆者、阿藤大昇の確信であり、それは絶対に譲れないものである。意識も概念もすでに倒壊した、もうすでに筆者の概念は死に果て絶えた。しかし、復活した。ゾクチェンの教えが私を蘇えらせてくれた。
なぜなら、ゾクチェン・ニンティクの教えこそが私を目覚めさせてくれた唯一の教えだったのだから。(筆者の過去世すらも蘇えらすこととなったのだ)
阿藤大昇として為すべきことなど、何にももうなかった。すでに完成、成就していた。何を求める必要すらなかった。善を行うことも、法脈を伝えることすらもう意味はない。
それはまったくして発菩提心も慈悲も文字の説く教えであって、単なるスローガンに過ぎなかった。(ただの一度も慈悲を生じたことのないものが慈悲を説くことなど可笑しな話だ)
究極である「菩提心の教え」であっても、必要もない。聞くことのできない。聞くことができたとしても、無用のものであった。
だからこそ埋蔵経典となって大地に埋もれ、誰もが顧みれないものになったのだ。(それを開くにはそれ相応のヴィジョンをもっていなければ路傍の石に過ぎないものなのだ。『クンチェ・ギェルポ(存在を突き動かす純動の王)』を読んでも何の感動も持たないものたちにゾクチェンを説くことは無意味だといえる)
今この時代は、新たな埋蔵経典を解き放つ時代になって来ている。2007年の時同じくしてゾクチェン・ニンティクの教えが世に現われはじめたのだ。それはもう誰も止めることはできない。
その教えはもう血脈を離れて自らの意志で動き始めた。故張明澄先生の五術六大課もそして南華密教も復活しはじめた。
いまや時代は真実の教えを開放しようとしてる。時代は教えの開放へと突き進んでいる。無意味な教えを抱く必要はない。新しい時代を切り開く教えが今まさに誕生しようとしているのだ。
筆者の怒りは、宗教根絶するための透明な智慧と虹の身体へと変容した。その教えを見縊ってはならない。ただ人を狂わせた教えを説いたものにその教えは凶器と化し、必ずその教えを破壊するだろう。(必ずやカルマの負債を支払ってもらう。それが因果の道理であるからだ)
その教えは世に蔓延る無意味な占いの教えや外道の教えを破壊していくだろう。人類を目覚めさせるために。地球の次元が上がるのを待っていてはダメだ。自らの中に次元はあり、それを他に求めてはならない。
同じ過ちを犯してはならない。教義に支配されていてはダメだ。あらゆる限界概念から開放されなければ、真実の自分は見えて来ない。あるがままの自分を見出すということが、如何に難しいか、全体性の中にある固体性を見出すことは、非常に難しい。なぜなら、みな外を他を見て、自分を判断しているからだ。全体の中に答えはない。また固体の中にも答えはない。なぜなら、その答えは、それすら越えたところにあるのだから。
偽りの宗教家や偽りの宗教行為はすべて石を金と言う詐欺師(オレオレサギ)と同じ現象だということを理解しなければならない。その根本が慈悲から派生した行為だとしても無明(マリクパ)に覆われたものに過ぎない。なぜなら、その被害にあったものは、何の救いも慈悲もないからだ。それらの行いの結果は、人の怒りと憎しみを増大させるだけだ。何の責任も何の使命感ももたない人々が起こす智慧のない行為と呼ぶことができる。(自己責任と言いながら何の責任も取っていない。それはただの責任逃れだ。因果の法則はその行為を許す道理がない。天は必ずそれを裁くはずだ。人を危め傷つけた行為を天は絶対に見過ごさないのだ)
自分のやっていることがどういう結果を生むのかも知らずに行為している人々は、どんな人望や地位をもとうが目隠しをして戦闘機を操縦しているようなものだ。
リアリティの本質に到達した人々は、その真実を顕わにするだろう。だから、そんな宗教などこの社会にまったく必要などないのだ。
本当に見つめなければならないのは、自らの心、つまり、心の彼方にある自らの菩提心に目覚めることであって、それを他に求める、つまり、自分以外に求めてはならないのだ。
煩悩の受容と拒絶によって生きてはならない。それは何も解決に至らないからだ。
煩悩を増大させ悪しきカルマを積むだけに終わるからだ。
煩悩と智慧は交叉して現われる。その智慧を見出せない限り、人は絶対に悟りに至ることはないだろう。
筆者は六大課における広範囲な考察をおこなった。そしてその真実を得た。しかし、それを誰も評価できる人がおられなかった。自分が喰えることが目的ではなく、人を悟らせることが目的なのだから。それが筆者の「文火温玉」の運命であり、それを『子平洩天機』は説いていたのだ。