人間の存在は、ブッタが究明した、
煩悩障
所知障
のふたつに分けられるだろう。
煩悩障は、人間の原始の欲望に根ざしたものであり、衣食住や煩悩のままに生きる、つまり、欲望を対象化した貪りによる性風俗や飲食関係、売買の商売や住宅関係を職業にしている方々に見受けられる煩悩である。
これに対して、所知障は、知識や概念といった文化的事業に関連した、宗教、学問、芸術、政治や技術、技芸といった分野の人々が陥る煩悩といえるだろう。
その中で詐欺的行為をおこなうのは、宗教や学問、政治、財界を問わず、ボッタクリやほうがいな値段をとったり、合法的におこなう商売を含めて、それらは命によって突き動かされていると考えてよいだろう。しかし、これが犯罪にならなければそれでよしとしているのが社会的見解である。本当は人間の欲望を増大させ詐欺的行為をおこなって搾取しているのが社会の構造なのである。
子平推命では、地位や常識がある人々が犯罪に陥る場合と、そういった概念すら持たずに罪を犯している人々の命運を明らかにしている。この二つの煩悩は人相にも現われるのである。
ひとはなぜその限られた制約の中で犯罪を犯してしまうのだろうか。故意に行う人もいるし、まったく気がつない内に犯罪に至っている場合がある。
しかし、その根本は煩悩によって突き動かされているのである。煩悩によって気が散らされ、狂ってしまっているのである。煩悩が増大することで、精気神のエネルギーバランスさえ崩してしまっているのだ。
一番問題となるのは、その煩悩を対象化してそこに怒りと憎しみを常に増大することだ。執着も同じような結果を生み出す。上手く行かないことや自分に欠けているものに強く執着して、必死でそれを掴み取ろうとする。ものに異常に執着するのも強度の貪りであるといえる。それはもう病的な行為であるといえよう。
悟りとは、ただ勉強したり研究したり概念化することではない。そのような習慣が強い人ほど、悟りにほど遠いといえよう。定形的な見解を持つ宗教というような行為を行うものこそ、悟りから完全に離れている。
すべての概念や教えから離脱し、真実の教えに目覚めるしかない。
つまり、欲をかくなと言っているあなたこそ強欲な存在なのだ。これは教え諭すことがいかに難しいかということを物語っている。
ひとが生きる現実は、リアリティの本質を見誤った、カルマから生じる心に映しだされた幻影を実体のあるものだと対象化し、それを支配しようとしたときから人間の苦悩、つまり、煩悩に苦しめられることになる。
智慧に目覚めたひとは、すべての現象はすべて悟りにつながる。なぜなら、そのわけが、その現象がおきる原因を写しだせることができるからだ。子平も遁甲も風水も等しくそれを見届けた人々が、その智慧によって形にしたものなのだ。だからそれを理屈やロジックだけで読み解こうとする行為は完全に間違っている。
物事をわかりやすくすることは、単純にすることではないのだ。知恵に換算することなのだ。知恵あるひとは、必ずそれに大切な意味を見出すはずだ。それを直感できないものは、まだ概念の皮膜によって世の中を錯誤して見ているものたちなのだ。
知恵のないものに、無知のものに、いくら法(ダルマ)を説いても理解できないのは、自分が作り上げた価値観や概念、つまり、鳥かごを壊せないでいるからだ。一度概念の死を、精神の死を経験してみなければ、真実は見えてこない。
自らを本当に棄てることができないでいる。つまり、欲望に支配されているからなのだ。それを宗教が説く、苦行によっても、脅しによっても(サマヤ誡、戒律、法律の類)、洗礼的な浄化儀式によっても、それを目覚めさせることはできない。次元が違うのだ。心の本質に直接踏み込んでいける知恵の輝きこそが本当に人々を目覚めさせることができるのである。
智慧の輝きこそあらゆる戯論や概念の皮膜を剥ぎ取ることができる。
幻身は光明によって解脱させることができる。
妄念は自性によって止滅させることができる。
自他共に完全に現象を支配することができる。
これがゾクチェンの修行によって得られる智慧の成果なのである。
巧みな方便によっても悟ることは不可能だし、そもそも悟らせようなどとする行為や我々は天使や聖者だと本当に想っている人々こそなにも悟っていない煩悩のままに生きているものたちだといえる。(誰でもサギ師にはなれるが、本当のグル(導師)になることは非常に難しいのだ)
単なる魔術や魔法に惑わされてはならない。うそは必ずバレる。なにも悟っていない宗教家がわれは教皇であるような振る舞いをしているが、それは本当の教皇ではない。本当の教皇は宗教を否定するはずなのだから。
ひとが悟るには、個人の運命が多様なように悟り方も多様だ。
概念によって悟る人
象徴によって悟る人
本質を知って悟る人
しかし、八乗の教えでは今世においてブッタと同格にはなれない。死後バルドの中で解脱する可能性はあるとしても、誰もそれを保証できない。
空海は、即身成仏を説いたが、彼のさとりはゾクチェンの見解では、残念ながら幻身の悟りの段階に過ぎなかったと考えられる。
自らが解脱するしかないのだ。その道を本当に説くものこそ根本グルといえよう。
究極の悟りを目指すべきであり、その悟りの中で智慧と覚醒とともに生きるべきだ。