人間が死に至ると肉体はなくなっても意識が目覚める。死後最高49日間は意生身、つまりバルドの世界を生きることになる。そのとき肉体はなくなっても人間であった意識習慣が強かったので意識は日常と同じで家族や知人とコンタクトすることができる。しかし、肉体がないので、その相手には自分の存在を認識することはできない。意識を読みと取るビジョンをもったものはその存在とコンタクト可能である。しかし、再生のバルドでは死後三日後に意識は目を覚まし、それから七日ごとに意識の死を繰り返しながら、二週間後には以前の身体から次の転生の身体へと意識が変容していくとされている。だから意識が執着している二週間前後の期間にだけ知人とのコンタクトが可能なのである。
『叡智の鏡』には死後その人を救うにはどうしたらよいかが書かれている。
シトの修行によって、死者を助ける方法を知ることは、修行者の誰にとっても重要な意味がある。シトと金剛サッタの修行は、死者を助けるためにもっとも大切な方法だ。だがそれ以外にもできることはたくさんある。
死に臨んでいる人とつきあうときには、まずどういう人格なのか、理解する必要がある。知り合いで、好きで、助けたと思っても、本人が仏教に興味をもったことがなく、一度も道を信じたことがなければ、死が訪れたときにも、やはり生きていたときと同じようにして、すなわち仏教に何の関心をもたないまま、死ぬのである。
方便に巧みで、高い悟りを得た修行者は、一枚の紙を準備し、そこに「ヌリ」と書く。・・・紙とそこに書かれた文字は、死者の意識をつなぎとめる支えのようなものだ。というのも、その意識には、もはや肉体がないからだ。そういう依り代がなければ、死者の意識に「ここにとどまりなさい」と言いたくても、意識がどこにあるかわからない。どのようにコミュニケーションしたらよいかもわからない。依り代を作れば、死者を象徴していることがわかる。それに向かって話しかけ、会話すればよいのである。
四十九日目は、「ラムテン」と呼ばれる。ラムテンは、道をはっきり示す、という意味である。多かれすくなかれ、四十九日が、再生のバルドのふつうの長さと考えられているのである。そのため、四十九日には、なるべくたくさんの導師や修行者を招いて、できるかぎりの行をしてもらうのである。以上が、ふつう死者のためになされることだ。
このように死者も生者もひとしく仏教にまったく興味のなかった人々を救うことはできない。
人間はこころ(セム)がすべてだと言ったが、こころが救われなければ、何の意味もない。絆が必要なのだ。意識の依り代が必要であり、帰すべき道をはっきりと示すことが、本当のグルなのである。もしその道をはっきりと示す人間やものがあったとしたらその存在こそブッタと呼ぶに等しいものだ。
現代の一般に行われている先祖供養や死者の供養(葬式)は、まったく死者の意識に触れえるものではないものだということをはっきりと認識しなければならないだろう。
そのような儀式によって人の心を救うことにはならない。まさに慰霊でしかない。
勝負は死後49日間にどのように行動するかにかかっている。
まったく意味の無い先祖供養や死者の供養を行ってはならない。(功徳を積むどころか悪業を積むことになる)
無意味な行為は、人を迷わし、悟りから遠ざける。人は不信と欺瞞に陥るだけだ。
筆者の行う「百人斬り」も「死者」を救う方法も根本はまったく同じものであったのだ。
六大課は生者を救い、シトの修行は死者を救う、どちらも行くべき本当の道を指し示すことなのである。
道を見出すことに意味がある。それは悟りから生じるのである。自らの透明で清浄な土台を悟ったとき、行くべき道がはっきりと見えてくるはずだ。