生きたバルドの顕現
優れた修行者は、修行に向かう態度(チューパ)によって、現実の顕現を断ち切る。
現実を気にかけることもなければ、現実から何かを学ぶことはない。
現実の顕現を幻影だと認識して、現実の顕現を思いどうりにできる。
現実の顕現を支配できる人々は、現実の悪しきカルマを断ち切り、いつも素晴らしい人生を歩むことができる。
人は夢もバルドも人生も基本的に何もかわらない。
我々にあるのは心だけである。心が解脱すればすべてが解放される。
運命すら変えることが可能なのだ。即身口意成仏、我々の目の前に顕現している天地人の宇宙、ポイント、人、つまり、対象化された社会的立ち位置や住む環境、人間関係すら空(真空)となり、あらゆる穢れや概念に汚されない不動の境地に達する。
それがブッダの三身が起こす真実の智慧と奇跡なのだから。
そのためには虹の身体のオーラを輝かすグル・デバ・ダーキニーからの伝授とレッスンとセミナーが必要だ。
そのための布石として『チベットオーラ占い(恋運暦、5月号)』を発表した。すべての人々の虹の身体のオーラを輝かせるための方便として。
自他共に汚している人々よ。自らのオーラの曇りは概念が生み出す戯論からきている。知らず知らず煩悩が溢れている。煩悩は五毒となって人生をむしばんでいく。穢れとは、恐ろしいことに対称すら等しく穢してしまうのだ。思いもよらないうちに忍び込んでくる魔のように。
目覚めよ。脈管の穢れを浄化し、ブッタの三身を自らのものとするしかない。道ではないもの(人や教え)にとどまっていてはないらない。人生は生はあまりに短いのだから。
煩悩やカルマに溺れている間に不幸と死はやってくる。死ぬ準備をしなければならない。
それが生きたバルドの人々に与える教えなのだから。
我々はただひとつひとつ自分の目の前に現れたカルマの痕跡をあるがままに解き放っていけばよい。それを自らの光明の虹の光に還元していくこと、これ以外に今世で為すべき事などない。
リアリティーの本質を見誤って顕現を顛倒して見てしまった人々は対象に支配されながら自らの無明(二元的見方)が産み出した輪廻の幻影の世界を彷徨うことになる。
薫習からなる業風に駆り立てられて自らの脈管・ルン・ティクレを汚していることにも気づかない「生きたバルドの世界」を彷徨う無明の人々よ、今の自分を正しく覚る以外に苦悩から解放する道はない。
原初からの自らのラマ・イダム・ダーキニーの役割を今世で果たすことなく迷妄に陥った人々には迷いと苦悩の嵐に背中から追い立てられるだろう。
それは三宝(グル・デバ・ダーキニー)への敬信とその熱意を忘れ去ってしまったからだ。
勇気と清らかな気持ちを強く胸に抱いて清浄に生きていって欲しい。ときには対象に汚されてたじろぐことがあったとしてもそれらはすべて無明を基盤としたカルマが産み出した幻影に過ぎないし、それもまた法性が輝いた自性の光明であるのだから。
仏の三身を我が者として我が身に顕現させよう。すべてが真実を錯覚させて現れる、これが生きたバルドを彷徨う人々に与える教えなのだから。
解放は日常のほんの些細なことの中にある。笑ってしまうような出来事がつまり、カルマの負債の解放なのだから。物事に対して受容にも拒絶にも支配されない中庸の心をもって現実を生きて行く、これが我が道なのだから。
「根絶の道を説く」 阿刀田 達磨からの手紙
教えには、
放棄の道
変容の道
解放の道
があるが、しかし、
根絶の道、すなわちすべての歪んだ煩悩を生み出す意識の穢れであるところの前世の幻身や概念的戯言の業風の一切をすべて吹き飛ばし消し去る方法が存在した。
それはダーキニーが持つ神秘の力、天部の神々の秘術が炸裂した。
それはどのような意識の穢れもカルマの負債も業風もすべて蹴散らし空に帰す。
そしてそれらの業火は、もう当人にもどってくることは決してない。
直接光明を見せるこの方法は、すべての教えの原点であるといえよう。
グル・デバ・ダーキニーの自らの仏の三身に敬慕と熱意を持って感謝する。
阿藤 大昇