いよいよ阿藤大昇と阿刀田達磨の活動が本格的に開始されようとしております。その断片を携帯小説に紹介いたしましたが、小説をお読みになられた人々に感謝いたします。
人には真実が見えないようだ。いや、見ていたとしてもそれを自覚していない。それは大きな問題だ。
阿藤 大昇
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2010年5月
2010/05/31 10:28:54
いよいよ阿藤大昇と阿刀田達磨の活動が本格的に開始されようとしております。その断片を携帯小説に紹介いたしましたが、小説をお読みになられた人々に感謝いたします。 人には真実が見えないようだ。いや、見ていたとしてもそれを自覚していない。それは大きな問題だ。 阿藤 大昇 2010/05/18 7:27:49
人が死に行く過程で覚る悟りがすべての教えの根源となっている。 ゾクチェン 原初仏のサマンタバドラ・サマンタバドリーの顕現 無戯論の境地 神経管や脈管が浄化できていない人々にとって、残念ながら、この悟りの顕現を自覚する術がないようだ。 神という者を対称化したとしてもそれは本人が対象化した存在に過ぎず、二元的見解に陥ってしまったら真実を見失うことになってしまうだろう。 最低と呼ばれるものですら慈悲の心でもって接したとしたら彼こそ、アミダーバーの化身、つまり、蓮華生、パドマサンバヴァの再来といえるだろう。 生きたバルドにおいてもそれは例外ではなく、その悟りの境地を実感できないのだ。 その人に最も影響を与える、つまり、縁のある守護尊(イダム)が迎えにくる、顕現してくる。 あなたに常にグル・デバ・ダーキニーが寄り添っている。というよりも我々の身・口・意と完全にリンクしている。常に法を説いている。その存在こそ我々のリアリティーに他ならない。 パトマサンバヴァは、すでに虹の身体を得ていたので、あらゆる時間や空間を超えて宗教介入や政治介入や恋愛介入などを行っていたと考えられる。 その最たる者ものが彼の伝記である。 筆者もおなじくそのような小説を書いたそれが「マメヒコ西廂記」である。 その携帯小説の背景を紹介しよう。 マメヒコ 西廂記《せいしょうき》 阿刀田 達磨著 ダーキニーの覚醒編 第六才子書 マメヒコ 西廂記 読法 著者紹介 阿刀田 達磨《あとうだ たつま》 検索キーワード 子平 目次 ファースシーズン 全編 登場人物 登場人物 張生 本名、張君瑞、書生、科挙の試験にむかう書生。 背景 ファーストミッション 序章 エピローグ 西廂記の由来 冒頭詩 張君瑞功做東床婿 法本師住持南禅地 老夫人開宴北堂春 崔鶯鶯待月西廂記 『西廂記』は冒頭のこの詩より甘く切ない中国古典文学の異彩を放つ、純粋恋愛小説の本の箱紐をこの時代に今解こう。それが天の時であるからだ。 阿刀田 達磨 2010/05/10 9:28:44
人の運命とは、単なる抽象的概念でつかめるものではなく、個人を巻き込んだ大きな流れ、つまり、運勢の影響を常にうけている。 定型的概念、つまり、二元論的無知に陥ってしまった人々は、目に見える現象だけを運命とか、運勢と考え、自分に関係のないものは、すべて排除して考えようとする。 しかし、人の運命とは、対称に大きな影響を受けてしまう。それは我々は二元的な顕現によって常に自分と相手の良い部分も悪い部分も写し合ってしまうからだ。 その対称を放棄し、拒絶して生きる、つまり、悪しき行為を捨て去り、善なる行為を成すことが、ブッダの放棄の道(八正道)といえるだろう。 人にはエネルギーという問題があり、悪しき行為の人々の不純なエネルギーによって自らの行為が汚されてしまう場合がある。それは、ときとして運勢が落ち込んだときに起こる現象だ。その不浄な現象を清浄な顕現に変容しようとしたのが、密教の変化の道なのである。 不可視の存在からのエネルギーの干渉を受けてしまう。それが主に生き霊とか、他の霊的なエネルギーに翻弄されてしまう。その穢れの原因は前世や家や風水の問題が大きく影響している。そのエネルギー干渉を相殺したり、支配することが、密教の成就法であり、変化の道の正体であったのだ。 人の煩悩を喰らって浄化してしまうダーキニーの法が、その最たるものである。現代ではこれを浄霊と呼ぶ人もいる。 完全に神経管が浄化されると清浄な浄土の神々顕現が現れてきて、その土着の神々は、その修行者を他の不浄な存在から守ってくれる、つまり、イダムとなってくれるのだ。 問題なのは、こちらから働きかけて報身の次元をいくら開いたとしても虹の身体からのアクセスがなければ、そのお作法は単なる一方通行に過ぎないし、それは徒労におわることになる。常にその報身や化身が顕現していなければ、その修行は何の効力を発揮しないだろう。つまり、霊験あらたかにならないのだ。 ゾクチェンの無思考のよって創られるミヨワ(不動)の境地は対称の二元的な業風すら影響を受けなくなる状態になる。ゾクチェンは行為においても三昧の境地にあるので、すべての対称の身・口・意の穢れをすべて三昧に統合してしまうので、ゾクチェンの修行者は結果的にすべては空の状態が維持できる。 しかし、顕教と密教の修行者は絶えず対称に支配され、振り回されることになる。その修行をしている内に放棄と変化の最終目標すら見誤ってしまうことになる。 解脱するという最終目標を常に持っていなければ、すべての修行は無意味なものになるだろう。 2010/05/09 0:13:03
子平最悪の運勢を今対面して歩んでいる人々へ ~根絶の道3~ 子平が説く大凶の運勢に対面してもなおそれを受け止められるのか人間には。大抵は受容と拒絶によって運命はバラバラに切り裂かれて行くだろう。大きな歪みのエネルギーが自他共に破壊していく。運命なのかそれとも運勢なのかその歪みやしこりを強制することすらできない。変容不可能。運命の流れのままに。悪しきカルマが顕現していく。人は暴走したカルマの業風に煽られて翻弄される凧のようだ。その運命を誰もそれを止めることはできない。すべての膿とカルマの負債を吐きだしている。不幸。悲しみ。不成就。極まり。挫折。堕落。汚職。多端。汚れ。傲慢。驕り。怒り。中傷。嫌悪。憎悪。愛着。執着。すべての悪しき煩悩を発散させている。そんな汚物すらも見届けなければならないとしたら人生のリアリティーとは末恐ろしいものだ。そんなものはあってもよい。その先にあるリアリティーの本質をどう見れるかだとゾクチェンは説く。しかし、あらゆる行為は自らを汚し、対象すらも汚し尽くしていく人生。すべてが裏目に出る。出合う人には迫害され、最良の方位は最悪の方位に変容し、風水すらも敵となって立ちはだかる。奇門遁甲によって他人を危めることは不可能だ。なぜなら幻影によって幻影を、妄念によって妄念を打ち崩す事などできない。すべて自分が起こしたカルマの幻影が自分に舞い戻って自分に映し出されていること、これを自己顕現として顛倒した見方によって対称に責任を転嫁する。これこそが我々が運命とか、カルマの負債と呼んでいるものの正体なのだ。そんな幻影や思考に惑わされるものたちは法界に住む住人には無縁だ。 ブッタの化身であるダーキニーたちに心から帰依し、真剣に救いをこいねがうしかないだろう。絶望に達しているならば阿弥陀仏に。そして限界を感じているならグル・パドマサンバヴァに。究極の悟りに触れたいのならガーラップドルジュに、それこそが阿刀田が説くゾクチェンの境地なのだから。あなたの目の前に常にいてくれるグル・デバ・ダーキニーになぜ救いを求めないのか。 張先生の子平を習ったすべての人々が概念にひどく汚されている事実を知った。それはまだ張先生が説くべき時期ではなかったからだろう。しかし、その汚れをすべて受け入れて先生は逝ってしまった。誰のせいにすることなしに。すべての弟子よ。それを本当の意味として理解して頂きたい。これが人の煩悩であり、五毒が顕現した結果であり、現実なのだ。煩悩とカルマに敏感であれ、煩悩すら理解しようとしない愚かな教えに従ってはならない(マーチンのように)。それが唯一の道であり、忠告だ。智慧の発現を。敬慕と敬信のグルヨーガに人々はいつ気づくのだろうか。 煩悩とカルマの浄化を行い福徳を集積しなさい。そこからすべてがはじまる。福徳を積むとか浄化するという概念すら持ち得ていない人々、つまり、自分が穢れていることに、自他ともに汚している事実を、人とはそういう存在であったのだ。しかし、例外はあるけれど。 ダメな同士が出合って正しく覚っていくこれが真実なのだから。きっぱり捨て去ること。執着や憎悪や愛着を密教のように相殺しているようでは、永久に二元論を越えることはできない。それが次なるステージに向かわせるのだろう。それこそが阿刀田が感知したゾクチェンの境地なのだから。 8人のダーキニー(空行母)の中の真っ赤な金剛亥母と多聞天(毘沙門天)に感謝する。それとこのブログを真剣に批判してくださった人々に感謝する。(なぜならそれこそがリアリティーと呼ぶに相応しいものだから。) 阿藤 大昇 |