子平最悪の運勢を今対面して歩んでいる人々へ ~根絶の道3~
子平が説く大凶の運勢に対面してもなおそれを受け止められるのか人間には。大抵は受容と拒絶によって運命はバラバラに切り裂かれて行くだろう。大きな歪みのエネルギーが自他共に破壊していく。運命なのかそれとも運勢なのかその歪みやしこりを強制することすらできない。変容不可能。運命の流れのままに。悪しきカルマが顕現していく。人は暴走したカルマの業風に煽られて翻弄される凧のようだ。その運命を誰もそれを止めることはできない。すべての膿とカルマの負債を吐きだしている。不幸。悲しみ。不成就。極まり。挫折。堕落。汚職。多端。汚れ。傲慢。驕り。怒り。中傷。嫌悪。憎悪。愛着。執着。すべての悪しき煩悩を発散させている。そんな汚物すらも見届けなければならないとしたら人生のリアリティーとは末恐ろしいものだ。そんなものはあってもよい。その先にあるリアリティーの本質をどう見れるかだとゾクチェンは説く。しかし、あらゆる行為は自らを汚し、対象すらも汚し尽くしていく人生。すべてが裏目に出る。出合う人には迫害され、最良の方位は最悪の方位に変容し、風水すらも敵となって立ちはだかる。奇門遁甲によって他人を危めることは不可能だ。なぜなら幻影によって幻影を、妄念によって妄念を打ち崩す事などできない。すべて自分が起こしたカルマの幻影が自分に舞い戻って自分に映し出されていること、これを自己顕現として顛倒した見方によって対称に責任を転嫁する。これこそが我々が運命とか、カルマの負債と呼んでいるものの正体なのだ。そんな幻影や思考に惑わされるものたちは法界に住む住人には無縁だ。
そのような妄念(幻影)から脱却し、あらゆる概念に汚されずに清浄に生きて行くには、あるがままの自分の真実を逃げることなく直視し、それを正しく覚る以外に方法はないだろう。すべてが見放していく。それを見届けることしかできない歯がゆい自分の運命。救いの手は差し伸べられない。目前には自らの死への誘惑や他にそれ転嫁しようとする悪意しか顕現してこない。それは自らが本当に心の本質に本気で心を開いていないからだ。汚れの極地は悟りであり、浄化の極地でもあるのだから。
ブッタの化身であるダーキニーたちに心から帰依し、真剣に救いをこいねがうしかないだろう。絶望に達しているならば阿弥陀仏に。そして限界を感じているならグル・パドマサンバヴァに。究極の悟りに触れたいのならガーラップドルジュに、それこそが阿刀田が説くゾクチェンの境地なのだから。あなたの目の前に常にいてくれるグル・デバ・ダーキニーになぜ救いを求めないのか。
張先生の子平を習ったすべての人々が概念にひどく汚されている事実を知った。それはまだ張先生が説くべき時期ではなかったからだろう。しかし、その汚れをすべて受け入れて先生は逝ってしまった。誰のせいにすることなしに。すべての弟子よ。それを本当の意味として理解して頂きたい。これが人の煩悩であり、五毒が顕現した結果であり、現実なのだ。煩悩とカルマに敏感であれ、煩悩すら理解しようとしない愚かな教えに従ってはならない(マーチンのように)。それが唯一の道であり、忠告だ。智慧の発現を。敬慕と敬信のグルヨーガに人々はいつ気づくのだろうか。
煩悩とカルマの浄化を行い福徳を集積しなさい。そこからすべてがはじまる。福徳を積むとか浄化するという概念すら持ち得ていない人々、つまり、自分が穢れていることに、自他ともに汚している事実を、人とはそういう存在であったのだ。しかし、例外はあるけれど。
ダメな同士が出合って正しく覚っていくこれが真実なのだから。きっぱり捨て去ること。執着や憎悪や愛着を密教のように相殺しているようでは、永久に二元論を越えることはできない。それが次なるステージに向かわせるのだろう。それこそが阿刀田が感知したゾクチェンの境地なのだから。
8人のダーキニー(空行母)の中の真っ赤な金剛亥母と多聞天(毘沙門天)に感謝する。それとこのブログを真剣に批判してくださった人々に感謝する。(なぜならそれこそがリアリティーと呼ぶに相応しいものだから。)
阿藤 大昇