人の運命とは、単なる抽象的概念でつかめるものではなく、個人を巻き込んだ大きな流れ、つまり、運勢の影響を常にうけている。
定型的概念、つまり、二元論的無知に陥ってしまった人々は、目に見える現象だけを運命とか、運勢と考え、自分に関係のないものは、すべて排除して考えようとする。
しかし、人の運命とは、対称に大きな影響を受けてしまう。それは我々は二元的な顕現によって常に自分と相手の良い部分も悪い部分も写し合ってしまうからだ。
その対称を放棄し、拒絶して生きる、つまり、悪しき行為を捨て去り、善なる行為を成すことが、ブッダの放棄の道(八正道)といえるだろう。
人にはエネルギーという問題があり、悪しき行為の人々の不純なエネルギーによって自らの行為が汚されてしまう場合がある。それは、ときとして運勢が落ち込んだときに起こる現象だ。その不浄な現象を清浄な顕現に変容しようとしたのが、密教の変化の道なのである。
不可視の存在からのエネルギーの干渉を受けてしまう。それが主に生き霊とか、他の霊的なエネルギーに翻弄されてしまう。その穢れの原因は前世や家や風水の問題が大きく影響している。そのエネルギー干渉を相殺したり、支配することが、密教の成就法であり、変化の道の正体であったのだ。
人の煩悩を喰らって浄化してしまうダーキニーの法が、その最たるものである。現代ではこれを浄霊と呼ぶ人もいる。
完全に神経管が浄化されると清浄な浄土の神々顕現が現れてきて、その土着の神々は、その修行者を他の不浄な存在から守ってくれる、つまり、イダムとなってくれるのだ。
問題なのは、こちらから働きかけて報身の次元をいくら開いたとしても虹の身体からのアクセスがなければ、そのお作法は単なる一方通行に過ぎないし、それは徒労におわることになる。常にその報身や化身が顕現していなければ、その修行は何の効力を発揮しないだろう。つまり、霊験あらたかにならないのだ。
ゾクチェンの無思考のよって創られるミヨワ(不動)の境地は対称の二元的な業風すら影響を受けなくなる状態になる。ゾクチェンは行為においても三昧の境地にあるので、すべての対称の身・口・意の穢れをすべて三昧に統合してしまうので、ゾクチェンの修行者は結果的にすべては空の状態が維持できる。
しかし、顕教と密教の修行者は絶えず対称に支配され、振り回されることになる。その修行をしている内に放棄と変化の最終目標すら見誤ってしまうことになる。
解脱するという最終目標を常に持っていなければ、すべての修行は無意味なものになるだろう。