心は自ずから立ちのぼり顕れる。形となって顕れる。心の在り方が存在の形状を現す。
純粋な心なのか?。それとも煩悩にまみれた心なのか?。
心は六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・神)の姿をもって顕現する。
だから自分の現れを観察する必要がある。
仏の心なのか?。それとも餓鬼の心なのか?。
リアリティーを映し出す目を持つ人に嘘やごまかしは効かない。
みなバレている。道ならぬ道を歩む外道たち。
真実を歩いていると錯覚している異教徒たち。
聖道とは、いかなるものなのか?。
本来、心は誰でも清浄であるとは言っても、妄念に、執着に心燃やしている人の心のどこが清浄であるといえるのか?。
聖道において清浄な心は一切妥協無し、心に妥協があったのなら聖道を歩いていることにはならない。
心において一切妥協無しの生き方、心を清め高める徹底した生き方が求められる。それは言葉によって決して語られることはない。
直球で、真剣に生きる、それが私の生き方。
与えられた喜びより、与える喜びの素晴らしさ。
大いなる悟りを得ることがどれだけ難しいか?。
マハームドラやゾクチェンの瞑想を修せずして心は解脱することは有り得ない。
仏教的異教徒たち、外道の人々たちの瞑想は真理(リクパ)に結ばれていない。
この現実を認識しなければならないだろう。