自らのカルマの負債を開放するためにさらなる悪しきカルマを積み立てるものたち。
彼らはことの次第を本当に理解しているのか?。
自らが犯したカルマの負債は雪だるま式となって自らに返ってくる。
良かれと想った行動が、慈悲があると勝手に本人が思い込んだ行為が完全に裏目に出た人たち。
かぶった人たち。それはテクチューのレベルの悟りに達していないからだ。
そこにはなんの救いも助けもない。
偽りの菩提心を信奉したものたちの哀れな姿。
哀れな集団の末路とそれに拘わった悲劇の人々。
そこには粒ほどの安堵も悟りも解脱もなにもなかったのだ。
悟れない人々には悲劇しか用意されていない。
限界概念の悟りや安易な解脱を説くのは、もういいがげんにやめよう。
浄化や解脱など一点もなにもできていなかった。一時の幻影(幸福)を見せただけに過ぎない。
もう嘘をつくのは本当に止めるときが来たのだ。(究極の外道であったことを認めること。しかし、それすらも感じていない輩も多いのだが。)
解脱に信を持って触れ続ける行為。
どんな悪しき行為や過去世のカルマの負債すら開放に向かう。
一瞬にしてカルマの負債から来る負の顕現は瞬時に消滅する。(つまり、完全解脱、彼岸に達する。)
この真実の仏法になぜ触れようとしないのか?。
いかなる顕れも自らを如実に映し出したものであり、ああだこうだとなんと言おうが、それが自らの本質を映し出している。
受容と拒絶、論外、思いこんだ無意味な行為そのすべてがそのまま本人の真実を写し出す。
それを細部に渡って真剣に観察していないことが問題だ。
そのためには、自分を真剣に観察する必要がある。
人は自分に気に入らない問題をそのままにして、なにも解決せずに次のテーマに移ろうとする。
論外であるし、その現象が起こった真の意味も知らずになんの気づきも反省もなく見過ごしている。
そのような人々に真の幸せのステージなど来る訳などない。
セムロンはオールロジックの悟りを説き、メンガクはローカルロジックの悟りを説く。(しかし、ゾクチェンは極めてローカルな教えと言わなければならないだろう。なぜなら、その道に目覚める可能性があまりに少ないからだ。)
究極の悟りを個人において実現しなければ、解脱の体験を実現することはできない。
どんなに真如があろが、自分が真如を体験できなければ、その道はなんの意味をもたないものとなる。
解脱の設計図をいくら眺めていても、当の解脱は永久にやってこないのだよ。
概念だけの悟りや机上の解脱に満足しているようではだめだ。
見解と行為が一致する。それをたとえるならば、良い音色がするギター。それは作り手と弾き手がみごとに融合して、お互いの価値を第三者の聞き手すらそれを認める。
悟りを求めるものの悟りが、そのような悟りであって欲しい。
真実を対称(対象)が選ぶ。それが如実であるのだから。
脇目も触れずにまっしぐらに外道ではなく、本道(聖道)を歩いていって欲しい。
概念を超越したところに悟りがある。その手法は概念を宗教すら遙かに超えている。
それこそが本当の仏法であり、あらゆる限界概念を駆逐し、宗教すら必要としない境地。
それこそが私の教え。