バルドの住人。
人は自らの顕現の中に閉じこめられている。
限られた概念の中に人々を追い込んでいってもそこから解脱は生まれることはない。
勝手に頭で作り上げだ概念を対称に押しつけてはならない。
傲慢で無礼な態度は人を苦しめ、対称に苦しい足枷を産むだろう。
それを開放できるのか?。それともその顕現に閉じこもって引き込んで生きて行くのか?。
回りを見廻したとしても同じ顕現のものたちばかり。
同じ顕現を持つ同士が啀み合い争い合う。
裏を返せば悟れるはずなのになぜに顛倒してみれない智慧のなさ。(というよりも智慧の酸欠状態)。
他をみわたせば不平不満に陥ってすべてを他人のせいにして自らをけっして顧みることのないマリクパの住人たち。
失敗というものを認識したとしても、すべてが失敗の中に現代の人々の心はあるのに、そこになんの成功があるというのか?。
がぶった占い師が特異な占いでもって何を説こうが何も解決しないし、そのような占い師を指名する客にも大きな問題があるが。
オファーされなければ、なんにもならない。しかし、それ以前にそのような人をオファーしてもなんの意味もないことを何時その本質を知るのか?。
妥協と迷妄の人々は翻弄され輪廻の中を彷徨い続ける。
対称とは自分を映し出す像や鏡のようなものであり、どんなものを目の前においても自らを映し出すのみで、対称の像によって何かが変わることはない。
その対称を通じて大いなる悟りに達する可能性を秘めている。
しかし、自分が悟れなければ、どんな対称(宗教や啓発や政治やその他諸々)を目の前に置こうが煩悩の受容と拒絶の堂々巡りが永久に繰り返して行くだけだ。
心がすべてを決める。だから対称である相手の心を見つめる必要があるだろう。
問題を抱えているとしたらすべて自分の心が生み出したものであり、その解決も心においてしか絶対に解決されないのだから。
解脱に向かいなさい。出離。決別しなさい。妄念と執着に。
自分を偽り、根本グルの説く言葉を欺き誑かして生きている人々にはバルトの恐怖しか課せられないのだよ。
本当に苦しみ、本当の救いを真剣にこいねがうものたちにしか、ブッダもダーキニーも絶対に振り向かないのだから。
人は解脱するための教えと福徳と糧量を保持することは、なんと得難いものなのか!。
狂った宗教にすべてを搾取され翻弄され自分の命(リアリティー)の大切さすら忘却されてしまった哀れな人々に。
愚かな宗教や解脱の可能性すら一点もない寺院に帰依し、布施するべきではない。
人には、究極的には、仏となるか六道輪廻に墜ちるか、その二つの道しか選択支がないのだから。