どんなことがあろうと心計と離れた裸のあるがままで生きて行くしかない。
どうやっても真実をみたものは、自らの清浄な自性を穢すことなどできないのだから。
行き着くところ、無造作で、心の緊張から離れた、ゆったりとした落ちついた心境。
何かを為すことなく、自然のままに、何かを求めなくとも、自然に与えられる。
恩恵、虹の光、虹の灯り、掻きたてるものなど、なにもどこにもない。
本質が顕わに輝いて戯れているだけ。
どのように概念を壊しても、さらに壊しても、本質はなにも変わらない。
嘘は微塵もない境地、嘘は一目でバレてしまう。
評価さえしなければ、端然とあり続ける。
排除する必要すらない。成果を追わないことだ。
そこで出された結果は、まだ宙ぶらりんの結果に過ぎないから。
時間系列(八字)に属さず、成果(運勢や方位)すら求めなければ、こんなにも気楽に過ごせる。
概念のパラドックスに陥ることなく、坦々としている。
いそいそしたり、焦ったり、慌てたりせずに、安心して生きていける。
何ものにも制約されることなく、無理をせず(勉強)にあるがままにある。
他からの概念の嵐からの影響も受けず、悠々としている。
作り上げられた理想や夢を追うのではなく、本質を抱いて生きよう。
そのとき、誰がなんと言おうと、本当に偽り無く、輝いているはずだし、心の本当の底からあふれてくる輝きと叫びは絶対に時間系列など制約されないのだから。
心が決定するのでなければ、なにもはじまらない。
教えを抱いているだけでは、なにも変化はおきない。
自分自身が必ずできることに決断する。
きれい事だけではないけれど定められないときもある。
一対多は物事が粗野となり、個の注意力が散漫になるため合理性を追求しても細部に繊細さを欠くことになる。(品質の低下)
一対一はありのまま、お互いに鏡に真実が映し合う。勝負の支配の優劣は一瞬にして決まる。だからこそ互いの個々のカルマの負債や器の融合が問われるのだ。(まったく理解していないものもいますがね。)
多対一は、個の有りようが批判されるので、個が自覚すれば、成長と進化を余儀なくされるはず。(品質の向上)
人間の本質や自性を測ろうとすることなど所詮無意味なことといえよう。
それはあらゆる限界や規制から自由に戯れているのだから。