どうにもままならぬ運勢のときにどう対処すべきか。
わずかな光明のためにすべてを捨て去る必要がある。
なにも決定もできないで、押し流されていく人生。
よりどころを求めてしがみつこうする人々。
執着に定着しているままで、そこに安住などない。
明日その保障は露と消え去る。保持するものなどなにもない。
なにかに執着し、依存しても空をみるだけ。
二元論の中には、安らぎもゆとりもない。それは一時的なもの。
すべては露と消えていく人生。
求めるものは、なにも得ることなく、すべて泡と消え去る。
そこには、求めたものにリアリティーが元々無かったのだ。
なにもない妄念が生み出した僅かな希望にすぎなかった。
自ら描いた幸せは幻影にすぎなかったことをいま覚る。
自己顕現である自らのカルマが戯れているだけで、どのような対称を置こうがなにもかわらないし、どうのように顕れようとも一味だ(皆同じ)。
自らが変わらない限り、自らの見解を変えない限り、人生のどうどう巡りを繰り返す。
本人がそれに気づくのは、死か人生を完全に捨て去ったときだけだ。
未来は常に見えてくる。どんなにつらい人生であっても、いまがつまらない我慢しなければいけない人生であるならば、捨て去ってしまおう。
捨て去ることなどいつでもできる。しかし、そこに本当に大切な真実あるならば、勇気をもって捨て去れ。
もともと、なにもなかったのだから。概念が妄想が自分本位で生み出した人生希望図だったのだから。
だめな人ははどうあっても、どうやってもだめな人なんですね。
思考することがすべての禍いを産んでいく。ゴタゴタ。お節介から災難に。すでに煩悩で狂っている。
思考パターンが問題ではなく、智慧に根ざしていない思考が問題だ。
それを覆すことはできないのか?。
それがカルマであるし、自らに足枷の限界を課してしまっている。それが世俗八法が説く外道の道なのだから。
解脱に信を持ってみとどける。この解脱の体験がない人々こそ悲劇であるいえよう。
だからATOizmは解脱を説き続けるのだ。
解脱をまったく知らない人々に向けて解脱を説く。
自らの法性に辿りつくこと。それが禅の道(セム)だ。
自らの自性に行き着くこと。それが法界の道(ロン)だ。
自らの慈悲に終着すること。それがニンティクだ。
仏の三身を身に纏った人々に、もう限界も、泣き言も、愚痴ることすらないだろう。
完全にブッタとしてあらゆる概念を越えて、宗教すら超えて降臨したのだから。
その証として身体と意識と言葉は虹のように輝いている。そうでなければ、それは偽りの教えに、つまり、外道の教えにしかない。
占いだけで満足していては、だめだ。
占いはすべてをかぶる。なぜなら心がそれを対称化するからだ。
だからそれを解き放つには、心が解脱に向かはなければ無理だ。
なぜなら、すべての幻影は我々の心が産み出してからだから。
君たちは本当の敬信のグルヨーガを知らないのか?。
そこにすべての存在価値が問われるといっても過言ではない。
師こそブッダであり、師の中に光明も慈悲もみえない人々に未来も解脱もありはしない。
グルこそブッタの化身であり、ブッタの智慧の輝きを代弁するものだ。それ以上のものが人生にあるといえるのだろうか。
なにもみえていない人々は、本当に大切なものを蔑ろにして、そのグルに布施すらせず、疑いに満ちて、尊敬すらすることはない、解脱の資量すら積むことを厭い、グルを汚し、そのような人々に一瞬たちとも解脱の機会も解脱の甘露も顕現しないのは当然なのだから。
占う行為に心を汚している人々に告ぐ、自らの心の穢れを直視しなければならない。
そういった君は試されているのだよ。
しかし、本当のグルはそんなものを要求も強制もしないだろう。すべての清濁を平等に無毒化するであろう。グルとはそういうものなのだから。
未だに外道の世俗八法の秘伝を信奉し、帰依している哀れな人々に解脱の機会など永久に訪れない、そのレベルの違いがどれほどのものなか知らないからだ。それが菩提心の教えなのだから。
リアリティーの本質を見誤った人々とはそういう人々なのだから。
存在の証明と存在開放をひたすら説き続ける。誰も理解できなくても。その境地にあるものしかわからないパラドックスだから。粛正は始まる。
それがATOizmであり、解脱唯一求道そのものだから。
すべての多様性が受容と拒絶に完結している。
その枠組みの輪廻を転々としている、マリクパの内にいる人々に悟りが与えられるわけはない。
なにかに依存(依存とは一種のかたわなのかも、ここでは身体的なものではなく精神的なものや経済的なものも含めたものだ。)した成功などありえない。いまのあるがままが映し出される。
頼るべきものはない。迷惑をかけてはならない。そうしているのは、あるがままでないからだ。
いけていない自分自身をみつめなおすしかないだろう。大切なことは、いかなる問題であれ、自己解脱させること。それが重要だ。それ以外の最善な方法はない。
現実とは厳しい。自分がやったことがどのような結果を生むのか。それを知らずに突き進むのは、智慧がないということだ。自らを映し出す智慧を常に持ち続ける必要があるだろう。そうしなければ、すべては自分の回りから去って行くことだろう。
自分のやったことに責任がとれないならば、責任がとれないようなことはしてはならない。必ず失敗する。自らの器と力量を根本的に理解していないからだ。
ゾクチェンを学びなさい。ゾクチェンの本を読んでみるのもひとつの救いとなるだろう。
頭で理解するのではなくて、心の本質でしかゾクチェンは理解できないのだが。
運命を見る前に、名前などの改名や、吉方位などに頼らず、まず自分をみつめること。自分の置かれている立場をみつめること。
人は自分の世界しか見えない。いや、みていない。誰もそれに介入などできない。
しかし、真実は写し出される。必ず自分のやったことは自分にかえってくる。
だから解脱させる必要があるのだ。
運命をなめてはならないし、うらないもなめてはならない。
そこにこそ智慧を発現を呼び起こすヒントがあるのだから。
リアリティーの本質を見る以外に人生はなにもないのだから。
だから嘘(非現実)を見てはいけないし、嘘に突き進んではならない。
自分のやったことがなにもみえていないとしたら猛牛が理性を失って突進するようだ、といえよう。
そのようなものに悟りの機会が訪れるようはずはない。
本物をみよ、その心眼で、本当に大切なもの、絶対に失ってはならないものは、常に見えているはずだから。
それが見えないことが人間の心であり、セムであり、マリクパなのだから。