思想マイスターの覚醒
頓悟の道。自然に沸き起こってくる我々の心臓に宿している如来蔵が生み出す寂静な境地。これが無学訣の禅の道なのか。空であり、穏やかで、自然にゆっくり落ちついた状態になっていく。円満なる覚醒ともいうべきか。
緊張と恐怖がともなう憤怒の道は、我々の頭脳が生み出す動きや変化が起きる状況。憤怒尊とはこのような怒りに満ちた状態。しかし、心地よい境地だ。そこの究極は、大きな病気や大きな試練によって手ひどく覚らされていくのだろうな、と感じずには居られない。
ダキニーの道は、咽喉の呼吸のエネルギーに関しており、寂静でもなく、憤怒の状態でもない。ただ呼吸し、生命の息吹を感じる状態だ。あるがままであること。ダキニーがなぜゾクチェンの道となったのがよくわかる。その息吹は誰も邪魔することはでない。天地の息吹は三界を支配する。呼吸から思考が生まれるからだ。この世の世界の多様もその呼吸によってこうして生まれているのだから。
どこまで、放棄と変容と開放が、できるのか?。
その人の品格と品性が問われるしかないだろう。識功が問われる。