恋愛テロリスト
無法わがまま、自分しか見えていない者達。
自分の幸せしかみていない愚か者。
完全に煩悩に支配された人々。
これが人間の哀れな姿なのか。
ごたごた続きの人生。
カルトも宗教も政治も根源的にはなにもかわらないのではないか?。
唱えるのと訴えるものの鏡のような関係。
受容と拒絶が映し出した悲劇。
出合いが敵味方となる政治(宗教的)戦争。
なにも腹を割って話そうとしない。
見解の相違からくる闘争。(それ以前の場合もあるが。)
情熱だけで突き進もうとする二つの鏡。
絶対に割れることがない不破の鏡(金剛の鏡)をお互いに壊し合おうとする。
なぜ、ものの本質を心眼によって如実に見ようとしないのか?。
なにか違うものが見えたら、いつも排除しなければならないとしたら、過度の努力を強いらなければならない。
人間の持つ本来の強い執着と欲望と感情は、誰も止めることはできないし、誰からも疎まれる。
自らの身・口・意のマリクパの煩悩が生み出す負のエネルギーは、人生において非常に大きな問題を作り出す。(誰も知るよしもないし、筆者も無自覚だった。)
いつのまにか対称や第三者に負の大きな影響を与えている。
本人すら忘れてしまった過去世の負のカルマ(業障)が大きな原因となって発動してカルマの負債が償われている混世魔王たち。
不本意な人生は過去世の不条理が起こした悲劇であると。
しかし、だからと言って純粋で清浄な対称を汚してはならないし、その親愛なる対称を浄化することが真の愛情ではないのか?。
それには、自身の身・口・意からなる大いなるエネルギーの戯れをどのように制御して発していくことに倫理的な問題が問われることだろう。
それは、対称に直接真剣に対面して直接リクパの真髄をぶつけて行くのか?。(ゾクチェンのように。)
それは、ダキニのリクパ(明知)の真髄を直接見たものにとってあらゆる方便は幻影に過ぎない。
それとも、象徴的な方法(遠隔操作のような一時的な救済方法、安易なまじないレベルの妥協的方法)で妥協するのか。(密教のように。)
あらゆる対称を汚して救済すら出来ていない、いい加減な教えを説く道を奉じてはならない。(外道。つまり、その代表がマーチンです。それは人の弱みに従って搾取するような人々を筆者は仏と呼ぶことは永久に有り得ないでしょう。)
過去世を悔い改め新たな道への第一歩を踏み出すこと、そこに人生の大きな意味と大義があるのではないか?。
自らの三身に神仏を顕現している人々を誰が批判し、中傷すると言うのか?。仏の三身が自らに顕現していないことが、それが今信用されないし、理解されないし、愛されないし、疎まれるべき存在となっていることに大いなる自覚を持つことが大切だ。
そこにこそ解脱の秘密があると、筆者は、警告と忠告を発することはできる。
どのようなカルマの戯れがあろうとそれらはすべて善悪を超えて一味であると認識すべきで、すべての現象を善悪なしに許し受け入れてあげることが、我が師、シュリーシンハの解脱の教えであると筆者は確信している。
筆者の過去世であるチベットのラマ(どの派の誰であったかは未だ特定出来ていないのですが?。)が伝えようとするところのこのATOizmは、ブッタとなる方法を説く究極の二乗であるところの「存在の証明」と「存在の開放」のダキニのニンチィクの教えを、現代にリアリティーの真髄を超えて追求する教えである。
存在の証明と存在の開放
この二つのテーマこそが今この現代に説こうとする新たな教えのだから。
自らの本質を掴み取ろう。すでに覚っているその本質を掴んで離さない人は、必ず輝いているから。
概念に汚されることなく、リアリティーの心髄を見ながら雄々しく生きて欲しい。それが教誡だ。