テクチュー 解脱とはなにか? ~シュリーシンハの教え~
「法性が尽きて本来からの大清浄なることにおいてすら超えること。」、つまり、すべての顕現が自ずから立ちのぼり、すべての顕現が自ずから解脱に帰していくさま。
「所作を離れ透過して裸のものにすべてが止縛されること。」、(身・口・意のすべてが)裸のリクパに留まり自然に解脱するさま。
「完全に解脱し、一大平等なるものに系縛されること。」、本来・自己・凝視による・辺・独一の五大解脱。すべての顕現が自ずから自然に、自動的に解脱していくさま。
三大煩悩が単純・明快・矛盾のない状態をリクパが認識することにおいてすべてが放松されて、すべてが解脱に向かって開放されていく。それはすべての概念が自然に崩潰して、すべてが解脱への境地へと集結に向かう。まさに無の境地の体験であろう。
そこには今まで有ると想っていたもの、本当の真実だと想っていたものが自然に消滅していく。人々の秩序すら倒壊に向かう。個人の身・口・意そのものが倒壊に向かう。
それは、あらゆる概念や様式や常識をすべて超えている。言葉や概念や譬えで示すことができない。ものすごいパワーを秘めた限界を超えたものの究極の力能。そこにこそ究極の解脱がある。
それを言葉や文字や例によって表現しようとすることがすでに無意味だ。
真理などは、口に出せる言葉ではないし、どうやって言葉に出せと言うのか?。
概念が生みだしたテクノロジーや政治や文化や理想や思い込みは、人を苦しめる概念的制約に過ぎない。
二元論を克服する以外に人が幸せになれる術は存在しない。
存在の開放と解脱を説く以外に何を説けというのか?。
外道の説く、世俗八法が説く道に解脱など毛頭ない。
世にもてはやされるものに従ってはならない。
なぜなら、そこには解脱も悟りも安楽も存在しないからだ。
一時の安らぎと一時しのぎしかない教えに何故皆が従おうとするのか?。
受容と拒絶からの開放をひたすら説く。その行為はすべての欲望からの脱出であり、すべての苦しみからの解脱を説くことだから。
今必要なものしか我々の目の前に顕現しない。それが自己顕現であり、我々の心を如実に映し出している。
我々の心を離れてその現象は、決した顕れることはない。
今の時代の今このときに起きた事だからこそ悟れる。この広大無辺なる漂いにおいて船のように浮かんだ我々の心性が大いなる悟りに目覚めることに。
宙ぶらりんのバルドの世界。決定もできない世界を決定しようとする愚か者たち。
苦しみはそこから派生する。対称に執着し、妄念にしがみつき、それをつかみ取ろうとする。
問題は対称に支配されて完全に自らの本質を見失ってしまった者達にある。
自らの本質の輝きを取り戻せるのか?。マリクパが生み出す暗闇のオーラを顕現してしまった人々に。
気が済むまでやってみなさい。しかし、相手を対称とする場合は、必ず相手の立場を尊重すること。そうしないと拒絶の悲劇が起きますよ。
どうかしようとして、どうかできることなど、なにもないのだよ。
対称を支配しようとするのは自らの煩悩の働きの顕現に過ぎない。
政治も行政も概念的政治工作や宗教工作によってこの世の中がよくなったためしはない。
存在はすべての概念を越えてあるがままに存在しているのだから。
理解できない人々に、ただ解って欲しい。それだけです。
未だにああだこうだ言っているような人々は、社会からも、自然からも、誰からも拒絶される。それは考えるまでもなく当然だよね!。馬鹿なんだから。
勝手に作り上げたものは、嘘なんですよね。それがリアリティーを見誤った人々の行為なんですけどね。
自分が本当に信じた輝いている人々(グル・デバ・ダキニ・+相方)を追いなさい。そこにはなんの誤りも負債も断罪もあるわけないのだから。
偽りのグル・デバ・ダキニを追ってはならない。悲劇が起きますよ。なぜならそこにこそ断罪と裁きとイジメがある。偽りの教えを奉じる愚かな教えに従っているからだ。そうならない秘訣は自分に素直であるか?、自分に嘘をついていないか?、自分がその器に足る人物であるかどうかを吟味せよ。