広大なる善悪を超えた自己顕現をあるがままに見て、無辺に開かれた絶対的対象性を掴みなさい。
唯一の要訣に心を注ぐこと。それは完全なる悟りを達成するまでは日夜努力を怠ってはならない。なぜなら、今このときが絶対的対象性なのだから。
見解は大きく開かれていること。閉ざされたところ、あるいは、閉じたところや仕切られたところで絶対的対象を求めるべきでない。
ある特定な地点に拘るのも誤りだし、闇雲に新天地を追うのもまた誤りといえる。
過剰な金銭や芳崖なリスクを伴う対象を追うべきでない。かといってケチってしまって適当なところで妥協した対象を追うべきでもない。
明るい未来を創造していける絶対的対象性を掴むこと。それはもうすでにその当人の夢と希望の一部となって光輝いて励まし続けてくれているはずだから。
それがATOizm NEO の始まり
あるがままの心計を離れたところでの行為。智慧と覚醒が保たれたところでの行為。
カルマを積むことやカルマの負債の開放からすでに離れて、思想的条件や限界に縛られないことが大事。しかし、夢実現のための成果も見返りも求めない無執着で精一杯の投資や布施は必要。
根本をつくる意識を四つの灯明の智慧の風(ルン)で浄化して清らかな思考で勇気ある行動を。
人生において失われて行くものは星の数ほどあるが、それは絶対的対象性のあるものではなかったのだ。それは絶対破壊不可能な仏の金剛の三身(次元)ではなく幻影や幻に過ぎなかったのである。
残るものはただ「あるがまま」を悟ることのみだから。
あるがままとは、今置かれている自分の状態を単純にあるがままと悟るのではなく、それが世界の多様性の中で自らの唯一の本質に他ならないと本当に悟ったとき、それは真なるあるがままとなる。
輝きや光や悟りにすら執着することなく、広大無辺の漂いの中で、自らの剥き出した裸の明知(リクパ)を灯明にして生きること、それ以外に精髄や道しるべはない。
今本当に為すべきこと、それはリアリティーの本質を突くこと。解毒剤など存在しない。世界を汚しているものの本質がすべて人間が生み出したカルマと煩悩であるということを再認識する必要がある。
何重のもので覆い隠して本質を暗くしてしまうもの、それに支配されない煩悩を智慧に転換、あるいは解脱させる生き方をすべきだ。
その為には、勝義諦と世俗諦がどのように人間に影響を与えるかを熟知する必要がある。真実や宗教的、あるいは思想的な真理や文献に執着してそれに意識が占領されてしまった人を概念の住人と呼ぼう。反対に世俗諦の世俗の恩恵のみを追求することに執着する生き方(妄者)も究極的には真実とは呼べない。(過剰な自尊心と欲望を持つべきではない。人は煩悩を燃やして生きている限り、時間と空間という限界によって滅ぼされる。)
そのどちらにも執着しない生き方が本質に近いのかも知れない。
人生において執着こそがすべての苦しみを生み出す根本ではないか。
何かに執着していることが大きな問題だ。その執着を認識し、克服したときにはじめて修行のすべてがはじまる。
我々の五体から生み出される「識神」及び「精神」並びに「気力」を良い方面に使うこと。正しい精神性を培い善なる方面に使うこと。決して悪しき方向に使ってはならない。なぜなら、悪しき行為からは本来からの輝きが失われ異臭に満ちた黒きオーラが漂うようになる。社会的にも家庭的にも身体的にも悪影響と歪みを生み出す基となる。
(識神は社会的な精神活動の方面、著作活動、芸能活動、政治活動、宗教活動等。精神は、家庭生活方面、家庭的な商売活動等。気力は、医療活動、肉体労働方面。)
大切なのは自己顕現を放棄や変容することではなく、自己解脱させることに大きな意味が隠されている。善悪を超えて物事をみることができる状態にあるかどうかだけを問う。それには意図や作為から離れ、現実や対象を支配したり、コントロールしないで、あるがままに顕現した物事を放置することだ。
自分のやっていることが、善か悪かを正しく認識できないのは、覚醒した智慧に欠如しているからであろう。あるいは、何か別のリアリティーを見誤った特異な思想や見解や社会的制約に染まっているのかも知れない。
そしてグルヨーガの重要性をまったく理解できていない人々。自分の根本土台を見出せていないものはサマヤ誡に反し、グルにもダーキニーにも護法尊(デバ)にも反する。それがすべての限界と悲劇を生み出している。
(グルとは自らの本質である法性を象徴する。日本だったら大日如来に相当する。仏教でなければその教祖や開祖に相当する。ダーキニーは日本ではお稲荷さんのお狐さんに象徴される。密教やゾクチェンの教えでは、空行母やヴァジュラダーキニーと呼ばれる。護法尊とは土地神であったり、日本では式神に相当する。仏教に帰依して修行して悟りを得ている場合とまだ何も悟っていないグル・デバ・ダーキニーも存在する。サマヤ誡とはその3つの存在に反している。つまり、あるがままではないということだ。この中で一番大切なのは、法性であり、これを自らのものとしていない限り、どのな法を説こうが誰も賛同することはないし、反対に何の解脱も悟りも与えることはできないだろう。)
自らの本質のグルにも背き護法尊を蔑ろにしダーキニーとも同盟を持たなかった人々はすべてが障害となってすべてが立ちはだかる。
なにもやってもうまく行かない現象が起きるのは、自らの絶対的対象性ではないまったく自分とは無関係な概念が生み出した仏教の三宝に帰依したり、本当の三宝を無視して自分が好き勝手にやってきたことに起因している。(まだ悟っていないグル・デバ・ダーキニーを信奉して修行の根本としたり、パートナーとしてはならない。また悟っているグル・デバ・ダーキニーとはいえ、それを強要するのも誤りだ。)
それゆえ宗教・政治・医学・その他諸々の俗世のものや団体であるところの鳥籠に縋り頼ろうとする。だからこそ医者やその他諸々の背負い籠に乗ってはならない。そこには一切の自由はなく、負債と制約と苦しみと悲しみしか残らない。
自らの本質を背負い籠にすべきだ。
そこにこそ個体性の本当の自由性が開かれて来るのだから。
存在は心計を離れたあるがままの輝きの中にある。
作為がないあるがままであれば自然状態で完成しているあらゆる制約や限界を超えるところの我々に秘められた仏の三身が常に顕われ続ける。
心計を離れてあるがままを見、すべての執着を捨て去ったものには大きな救いの道が開かれる。しかし、迷乱に陥ったものはリアリティーを見誤って自己弁護、自己擁護に走る。それは自らの行為を省みずに他を批判する。それは非常に愚かしくみえる行為に他ならない。
真実を自分並びに他人にも覆い隠してはダメなのだ。無明(マリクパ)にある限り、混乱した迷乱の心が生じ、顛倒した見方からは、絶対に本当の真実はみえてこない。
一般に現象を迷乱とするのは、心計によって観念的に把握された現象が迷乱であるといわれる。
システムやツールやロジックや自らの限界概念に頼った心計によって為した限界行為による物事はリアリティーを何も見ていないから五大元素であるところのダーキニーは、すべて我々の敵となって立ちはだかる。
それは人間が勝手に概念で作り上げて構築し、対象化したものがどんなに頑丈で堅固なものであってもそれは幻であり、幻影であることからこそ破壊される。(我々が確実に存在していると想っていても実は何も存在しない存在、つまり、何の関わりもゆかりもない存在のこと。それはときが来れば、泡や露となって消えるものである。)
破壊は悟りを促す為に発生する。すべてを失わなければ人間は絶対に悟りの境地に触れ得ない。これがダーキニーである我々の五大元素が行使する戯れの理に他ならない。
ダーキニーの心髄には解脱のさらなる解脱が説かれている。だからこそダーキニーを修行のパートナーにする必要があるのだ。悟りを得たダーキニーに認められることがまず解脱の第一歩と成り得るのだ。
どんな人の人生においても意識の家の倒壊は必ず起きる。なぜなら、そんな確実に存在するものなど我々の目の前に有る訳はないし、そんなものに執着して追ってはならぬという我々に対するダーキニーからのメッセージなのだから。
絶対的対象性とは、ある人にとっては、特定の人であったり、ある象徴的なもの事であったり、またある人から見たらまったく価値のないものだったりする。すべての顕われの中で絶対的対象性は常に存在し、それをどのように掴み取るかはそれぞれの人の意識原理によって多様性に満ちている。
絶対的対象性を見届けるには、ただ単に物事を見るだけでは何も見えて来ない。(自らのグル・デバ・ダーキニーは自分で見出すしかない。誰かがその答えを教えてくれる訳はないが、ヒントぐらいは与えてくれているかも知れない。)
心は一人一人顔が違うように人相のような相がある。心は色んな相を持つ、それは我々の心の本性を如実に写し出しているのだが、それが我々の多様性であり、それをああだこうだといっていること自体がもうすでに迷乱の輪廻にある。
しかし、その心の体性は空なるものであり、心すら顕現に過ぎないと悟ったとき、すべては明らかになる。だからこそ、空なる意識は大いなる完成の意識状態であり、涅槃でもあり、輪廻と涅槃を対照する区別すらもうそこにはない。
すべての顕現を心と見定めて、心は空であると見定めて、空を無二・双入と見定めることによって我々の存在は、二元論として存在すべき要因がすべて一瞬に消滅する禅の悟りにも似た頓悟したテクチュウの状態、つまり、絶対的対象性の中でくつろぐことにある。
その状態にあれば、今このときが、どのような境涯、不遇なる状況に置かれようとも、あるがままで完成した状態に住しているのだから、今さらどこに何を求めるというのか? もうすでに求めるものは何もなくすべては成就している。その状態に到達する道を説くこと、これこそが根本グルが為すべき理なのだから。
あらゆる手段すらも拒絶せざるを得ない罪深く悪しきカルマを積んでしまった人も実際には存在する。だからこそ方便を尽して救いの手を差し伸べる必要があるのだ。ある人はある程度で救いの道が開かれるが、深刻なカルマの負債を背負う人はちょっとやそっとでは悪しきカルマは開放されない。なぜならば贖い難い大きな負債と汚れを抱えているからだ。
できることと言ったら占なってあげるかタクドルを与えるか最悪の場合はタクドルを貼ってあげることぐらいしかできないだろう。真実なるグルやダーキニーの浄化でなければ、それに芳崖な自他共にお布施や投資をしたとしてもすべて泡と消え去る。なぜなら、悟ることに関する機根に欠けているからだ。悟りや解脱を得るのに十分な下地や徳性がまったくといっていいほど成長していないからだ。
本人が内部から覚醒することがなければ、どんなに崇高な埋蔵経典の教えや御開帳や灌頂や帰依すらも無意味だろう。
故に今世において解脱の道はすぐに阻まれ邪魔され閉ざされてしまうのだ。教えも法もその当人には、道を示してあげてもそれに触れることも、理解することも、また保持することすらもできない。反対に誤解して善意を悪意に取り違えて受け取ってしまう場合もたたある。それほど悪しきカルマとは人を縛りつけ本人の自由性すらもすべて奪ってしまうのである。
しかし、そのカルマの負債がどんなに重く辛いものであったとしてもそれを解消し、解脱に向う方法と道が現実に本当にあるのだよ。(九乗のどの教えでも良いから自分の絶対的対象性に成り得る教えを見つけ出すことだ。その教えが自分の抱えた問題をどの程度開放できたか、ただそれだけを見れば良い。)
修行の過程で、傲慢にも自らを神とか聖者とか天使だと想うのは悪い印だ。道を見誤った人々や堕落して修行を怠って他を嫉妬し疎んでいる人々や逆恨みしている人々も同様に心は真実を如実に顕す。そう対象を想ったときすでに煩悩に塗れた悪鬼(羅刹)やピィシャーチャ鬼に人相が変貌してるのだから。その悲劇の根本は自らのカルマの負債の深刻な重さをまったく自覚できていないことにある。
本当の聖者や成就者は一目見れば直ぐ解るはずだ。必ずブッタの秘めたる智慧の輝きを放っている。なぜそこに敬慕や畏敬の念を発せずにいるのか。
人は如何に限られた概念でもって対象を捉えようと過剰な努力をするのか。しかし、それでも多くの人々は道を見誤り、真実の秘められた深部を見誤ってしまうのだろう。
なぜなら、すべては自らの心の本性が真実を映し出すからだ。煩悩の目で対象を映すのか、それとも、智慧の目で対象を映すのか。それによって道は究極の2つに別れる。(石を金に概念によって見誤るように、その錯覚は誰にでも起きる。)
究極のところ、死が来るまでに解脱して虹の身体を得て空間に飛翔するのか、それとも、死しても尚また幻身を作って更なる輪廻をするのか、と。
だからこそ希望を捨てて腐ってはならない。解脱する器となるべく精進努力せよ。
それが アトイズム ネオ だ。
自らの グル デバ ダーキニー は必ず微笑み、ただ光輝いているはずだから。