人生のスタートラインとは?
人生のスタートラインは「オギャー」と生まれたときではない。
自らの本質を完全に掴んだとき、そのときから本当の意味ある人生が始まり出発する。
それが何歳であるかは個人差があるようだ。初年や中年や晩年や死を迎える数日前であることもある。
それまではどんなに名声や地位やお金や社会的に誰もが認め現状維持できていたとしても何の意味もない。
まして美貌や健康やあらゆる至福を享受していたとしてもそれはすべて幻である。
なぜなら、それは、単に輪廻のカルマの負債を支払う過程の中で繰り越されたものに過ぎないからだ。
それらすべてを捨て去りすべて失ってこそ初めてその人は人生の本来の在り方に回帰するだろう。
それまではどんなに偉いことや大きいことを言っても空しいだけさ。
人生が自ら悲劇のヒロインや苦労や不幸であることを演出して自分を貶めたり、反対に幸福を装いながら本当は欺瞞だらけで自分に嘘ばかりの人生であっても何にも変わりはしない。共に本当のリアリティーを見ようとしていない偽りの人生なのだから。
そのスタートラインからどれだけ成長したのか、ただそれだけを見よう。
卍のブーミーのある段階に達して女神や神々や神仏が顕現したのか、それともまだ二元的見解に陥ったままいや増しに煩悩を噴出して生きているのか。(外道に走って不浄な顕現の中に在るのか、それとも仏性に目覚めて清浄な顕現の中に在るのかと。)
定型的観念に覆われている人々には理解不可能なこの教えを理解することは非常に難しいだろう。
拒絶して生きる人々は一生ある対象に怒りを発して拒絶し続けて生きて行くつもりなのか、それとも、受容して生きる人々は一生ある対象に貪り続けながら生きて往くつもりなのか。
どのような教えであれ本質に辿りついていない限り本当の人生と言われるものは何もまだ始まっていない夢の中の旅人と言えるだろう。
自らの本尊すら拒絶して生きる愚かな人々は煩悩やカルマに悲しくとも翻弄され続けられている人々なのだから。(我を認め尊重するという重要性を放棄してしまったのだから。)
生まれてきた意味すら理解できないまま、何の大勝負もしないままに次の生に転生する人々が残念ながらほとんどだ。
だからこそ自らの本質を掴むために真剣に命賭けで努力する必要がある。
なぜならその前に誰もがすぐに突発的なお迎えがやってくるからだ。
だからこそ自身を観察すべきだ。どのような状態に自分がなっているのか認識する必要がある。
一生自分が分からないまま終らないために自分から出発する必要がある。
自身を奮起する必要がある。
そして自らのグルである自分しかそれを発見することはできないのだから。
自らの意識が光明にあるとき、きっとすべてが輝きはじめる。
そこから本当の人生がはじまる。
時間と空間に縛られることもなくなる。
時間と空間の流れの中に意識を置くのはもう止めて、光明の中に意識を置こう。
だからこそ自らの光明を見出そう。
自分自身の潜在的可能性、つまり、仏性に。