生きる意味とは?
存在の源泉を知るものは、生きていながら、もうすでに生の究極のすべてを享受し尽くしている。
あるがままで完成という言葉には、すべての甘露を享受し尽くした歓喜が込められている。
人生を享受し尽くしたものに、いったい次は何を求めよと言うのか?
汚れなき自性をどう間違ったのかそれを汚がして生きる人々へ。
汚れなき自性を汚さない生き方が求められる。
それには、心計や作為の無い行為を生み出す智慧が根本となるだろう。
一時の幸福に酔いしれることなく、かといって苦難の渦中で絶望に到ることもない。
独りよがりや何かに拘ることなく、多くを求めずにあるがままにある。
輝きは外部より自己顕現として顕現する。
輝ける存在の出現は当人の輝きに多くの影響を与える。
対象を引きつける魔力のような力。
妖艶、美貌、ハンサムのような輝きに翻弄されることなく、反対に冴えなく、醜く、愚直なまでに拙い輝きにも動じない境地。
サマヤ誡を解除し、脈管の穢れ、ルンの穢れ、テイクレの汚れを完全に浄化しなければ、本当に意識を浄化することにはならない。
一瞬できたとしても根本的なアーラヤ識の汚れを浄化するには至らない。
ノドが詰まって変な咳をするのは、密教が重要視する脈管・風・滴のその三つの汚れの極地を現す顕現なのだ。(その汚れが取れる時期があるようだ。なんでもかんでも汚れを浄化しようとする行為もまた誤りだといえよう。)
何を言ってもいいし、何をやってもいい。また何を持ってもいい。
しかし、カルマの痕跡を意識に残してはならない。(具体的なものとして対象化しないことだ。)
このままカルマの痕跡を積み重ねれば、それは自らに数倍になって返ってくる。それがカルマの法則なのだ。
そのためには常にリラックスするテクチュウの修行を行って意識に痕跡を残さない行為をすべきだ。
意識を常に開放しながらしゃべったり、食べたり、行動しなければ、その行為は自他を共に悲劇の限界の中に追い込むだろう。生老病死は人に苦を与えるように。なぜなら時間の流れの中に意識を置いてしまっているからだ。
顕教レベルや密教レベルの教えとは言え、教えを概念だけでただ指でさし示しているだけでは何にもならない。一生その無意味な概念をその舌や筆で一生回していくのか?
教えを超えたダキニーの悟りのお誘いを断り、また外道のダキニーと同盟を結んだとしても解脱に遠い。悟っていない存在に救いを求めとも無駄である。(密教やゾクチェンの教えのある修行の段階で、ダキニーは必ず修行者に接触してくるが、その修行者の悟っているレベルに合わせて顕現してくる。それは当人の悟りに大きな影響を与える。それに失敗した人を筆者は多く見た。)
意味のある行為をしよう。
もし運命や前世が解ったからといってそれに固着したり、執着するのもまた誤りだ。
その運命もまたカルマの痕跡から導き出されたものだから。
現実を信じ過ぎないこと。現実を絶対だと思わないこと。過剰な過信は不信を引き起こし、人生で今このときに一番大切なものを見誤ることになるのだから。
この世に完全なるものはないのだからせめて自らの身・口・意の浄化の営みぐらはすべきだろう。
その浄不浄などというものを執取しようとする行為の外側に本当の悟りがある。清浄不浄というものを対象化していることが既に問題だ。
人間は誰でも頬を抓ったら痛いように二元的な状態に徹底的に収められているからだ。
自らのリアリティーと真っ向から向き合おうとせず、逃げ道ばかり探す愚かな人々。自分のリアリティーがどこにあるのかも解らずに彷徨い続ける人々。それこそが迷妄の輪廻なのだから。
言葉の中に秘められた本当の真実を掴むのは難しい。その掴めない理由を自分以外の外部に求めるのはさらに愚かなる行為だ。
人生が良くなることや悪くなることを心配するのではなく、迷妄の輪廻からの出離の念を発した方が遥かに素晴らしい。
自らが唯一絶対的対称性として輝ける道を見出すことだ。それが何であろうと苦労して手に入れたり、安易なものであってもいい。
苦労や努力はまだ自分がそのステージに及ばないのか?それとも自からの器を越えたステージを求めているのかもしれない。
しかし、それが人間という存在であり、三時を乗り越えてこそ人間たる化身たる存在価値が問われるのだから。
試されているのだよ。多くの価値観の中で本当に意味が有り、価値があることを見出すことができたらどんな状況にあろうと時間と空間や制約を越えてそれは人生においてそれを福と呼ぶべきであろう。
究極の絶対的対称性の中に求める真実を見出そう。そんなものが存在していること自体奇跡と呼ぶべきだろう。絶対に有り得ないのだから。絶対的対称性は絶対に存在するのだから。
世の中には上には上が、つまり、本当の究極の真実は存在するが、それを実際に掴み取れるかは、当人の器量に掛かっているといえるだろう。ほとんどがガセネタを掴んでいるのだから。
求道とは、自分の現在の状態を知って自らの人生と向き合うことであり、あるがままの自分を見出し、超越的なリアリティーを追うことなしに解脱を得るには、いかなる方法、つまり、いかなる道を求めるべきかが問題となる。
人間の限界思考を打ち破ろう。それがテクチュウのはじまりなのだから