ひとはみな煩悩と格闘しているようだ。
あるひとは自分自身にその全エネルギーをぶつけてしまうので、自分の身・口・意のみならず五大元素の空・風・火・水・地の各元素の調和すら破壊しようとする。
自分が投影する他の人々まで自分と同じような影響下に陥れようとする。しかし、当人がそう想っていなくても回りに与える影響は絶大だ。
(煩悩といものは、物資ではないので、煩悩が人の心身に与えるダメージは計り知れないものがある。特に難病を発症している人が発する煩悩は深刻な汚染を生み出すのだ。ときには、人のカルマに、つまり、運命にすら影響を与えてしまう場合がある。)
病人の心理のようにすべてが他人のせいだと想っている。一片たりとも自分に責任がないような振る舞いをする。これは、我執の極みである。しかし、この状況は、本人の思考が作り上げたものなので、だれもその状況を救うことはできない。
自分自身で自分を救う以外にその術はないのだ。宗教家も口では慈悲を説きながらそんなものは一度も湧いたことが無い現実に出会うだろう。救えないという現実を。
道を説くことができても救えるかどうかということは別問題だ。救われない道をいくら説いたところでくたびれもうけだ。
その道を信じてしたがったものは、みな蜃気楼や陽炎を追うようなものである。
自分が狂っていることに気がつくべきだ。煩悩の業火に焼かれみさかいなく生きていることを。
煩悩が尽きたとき、それは知恵の光に変わり、身体から光が発現するであろう。人間の本質は光であるので、煩悩が発現しないものは、虹の光が発現するようになる。
伝統や理論、つまり、概念による構築物などによって悟りに至るはずも無く、象徴手段によって悟るにしても誤っている象徴手段によって悟ることは絶対にありえない。
宗教というものが説く限界概念を打ち破るべきだ、人は本質が光っているのだから、だれであろうが、なにものであろうが、その存在を特定できるものなどないのだ。
なにものも棄てず、なにものも保持せず、すべては成就しているのだから努力の病いを棄て去り、あるがままの存在にとどまるべきだ。煩悩は毒を生み出す、人生や人を害するものとなる。
煩悩は、意識が三昧の境地にあるとき、すべての効力を失い無毒化する。煩悩は自然に消滅する。どんなにすざましい汚染に遭って心身がズタズタにされたとしても三昧にとどまり続ければ、どんな業火であれ、錯誤であれ、すべてはあるがままに融解して無に帰していく。
この煩悩の真実のありよう知ることが無ければ、そしてゾクチェンが説く『菩提心』の教えに依らなければ、劫の果てまで進んだとしても真実の悟りに、つまり、ブッタの境地を体験することはできないであろう。
世の中に人の煩悩を受信できるものが存在することを、煩悩の被害に遭いながらも煩悩の痛みが解かるものが存在することを忘れないで欲しい。
すべての人々に告ぐ、無明に塗れた煩悩に覆いつくされてはならない。煩悩を乗り越えて生きて行って欲しい。