人と人は、ギリギリの状態で出合っている。何も無いような状態で出会う人など独りもいないのだ。その出会いは生死を分かつものになることもある。
その出会いそのものが、敵となるか、それとも味方となるかということでその未来は決定されて行く。
人生において最善を尽くしていれば、すべての存在は微笑んで来る。しかし、無明に覆われてカルマと煩悩に翻弄されている何も悟っていなものは、すべては、苦しみへとカルマの負債となって自身に跳ね返って来るだろう。
努力する病いを脱ぎ捨てよ。努力は、病いの根であり、カルマの薫習であるからだ。そんなものは、棄て去らなければないない。それこそが、ブッタの説いた放棄の道の真実であり、それを清浄な顕現へと開放することが密教の説いた変容の道の真実である。ゾクチェンの説く自己解脱とは、自然解脱とは、努力という無意味な行為を無思考という行為によって乗り越えて、あるがままに無努力で因果を超える方法を説くものなのだ。
道を見誤ってはならない。出会いの真実のありようを直接みることだ。気まぐれな、自己中心的な出会いなどまったくないことに気がつくことだ。
一期一会とは、そのような出会いであり、三顧の礼に匹敵するものであるということができる。