大多数の人は、みな対象から自分を投影しようとするので、本来の自分のありようを見失う場合がたたある。これは特に占術家などの人にアドバイスを行う立場である人がこのような見解にあると困ったことになる。
なぜなら、占術家は、現在おかれている鑑定客の見解に立った視点によって運命や運勢、あるいは、鑑定客にいま起きている現象を正確に判断しなければならないからだ。
人は他人を写し出すとともに自分もその内に投影してしまうので、両者は切り離すことはできないし、分解することもできない。両者は、同時に物事の進行を観て行くのである。
その判断の中に占術的世界観を投影してみてしまう場合、それはその文化や伝統を通じてその本質を伝えようとしているのであって、その中に自分の思想的見解を入れてしまったら鑑定客に正しい情報を伝えるどころか誤った解釈を与えてしまうだろう。
あらゆる占術から引き出される情報の本質を掴むことだ。そうでなければ、伝統や文化の世襲のみに時間を費やし、まったく実占に役立たない占いを身に着けていることになる。
人はリアリティーの本質をほとんど見ないまま生きているようだ。人は自分のカルマしか観ていない。実際に眼前に写し出されたものは、カルマ的顕現のあらわれにすぎないのである。
仏教においても中観派と唯識派が論争したように、物事をどんなに微細に分解して本質を究明しても、反対により単純な法則によって本質に迫る方法も結局は、我々の無知の方便にすぎないのだ。これはどんなに高度な占いで非常に的中率が高くても、また単純で矛盾だらけの的中率の低い占いであっても同様なのである。リアリティーの本質に辿り着けなければ、どんなものであっても無意味だ。
大切なことは、概念によって生み出されない如実である「あるがまま」を見出すごとだ。人生は非常に短い。論争(戯論)に明け暮れている間に人生のピリオドがやって来る。論点となる本質を掴むことだ。何を見出すかが問題なのだ。そうすればあるがままの自分に回帰することができる。
リアリティーの本質を見誤ってはならない、主体も客体もない、あるがままを見出すことだ。