『リクパ・クジュン』は、知恵のカッコーと呼ばれるゾクチェンの教えの伝統である。しかし、この伝統の歴史の中に表と裏の教えがある。
ヴィロチャナが初めてチベットにもたらしたものは、ゾクチェンの教えの規模と体系を説いているが、もうひとつの教えは、ボン教の伝統の中にある。ゾクチェンの秘密の教えである『リクパ・クジュン』は、トゥーゲルの教えを隠喩を用いて書き表したものである。
パドマサンバは、双子であったとされている。つまり、伝授の血脈は血縁によって受け継がれていたのである。この時代は、シュリー・シンハが活躍した時代と同年代であり、ゾクチェンの教えが大いに発展した時期といえよう。
今までのゾクチェンの教えの伝統は、ブッダの教えのように小乗的な教えであったといえるだろう。それは、つまり、伝授の血脈の導師だけが、虹の身体を悟りを獲得しており、それ以外の教えの伝統には、そのような顕現は立ち現れていない。少なくとも現代の日本にはその伝授の血脈は存在していない。
ゾクチェンの教えが大乗の教えとなれるのかは、これからのテーマであるといえるだろう。
テクチューの修行は、身体を微塵の状態に還元し、トゥーゲルの修行は、その微塵となった物質次元を清浄な光の次元に還元しようとする。虹の身体を獲得できなければ、完全なる境地(ブーミー)には到達できない。
テクチュ-の修行に似た教えは数多くあるし、同じ結果に到る教えは数多い。しかし、その教えでは、限界に達するだろう。その教えでは、輪廻、つまり、二元的な在り方から脱出できないのである。
トゥーゲルの修行は、速やかに仏性に到達することができる。それは、本来人間が持っている潜在的な能力を開花させるからである。空を凝視したり、太陽や月の光を眼に入れる修行は、人間の視神経以外のもうひとつの神経管を開くために、特定のポーズと呼吸と意識と凝視が必要なのである。その4つが三昧のリクパにあるとき、思考は解き放たれ意識は完全に浄化される。
そのとき、意識は大空のように晴れやかで雲ひとつない。一点の穢れもなく清らかな意識の中で透明な輝きの中に包まれていることを感じることができる。あらゆるものを浄化する知恵をもととした慈悲のエネルギーはけっして途絶えることはない。
さまざまな教えが説かれたけれどあらゆる限界を超えていくには、ジャリュー(虹の身体)の教えを説く以外ほかはないだろう。