煩悩は、いや増しに増殖し、人々の無知から生み出される煩悩とカルマは、深刻な問題を引き起こしている。これにまったく気がつかない人々がなんと多いことか。
煩悩は、我々の存在理由であり、煩悩を解決するためにブッダは、ダルマをお説きになったのであるが、煩悩を放棄することで、特に身・口・意の側面を抑制することによって煩悩による影響をコントロールしようとしたのである。心を寂静な境地に置くことによって煩悩の発生を最小限に押しとどめようとしたのである。しかし、我々の心には思考の動きがあり、心を常に寂静な境地に繋ぎ止めて置く方法はないのである。
この思考の動きをコントロールしようとしたのが密教であるといえる。密教は師の悟りが弟子の悟りとなるため、極めてローカルロジックの仏教だといえる。結果を道のように進む教えであるので、清浄なマンダラの顕現を浄土として、人が死んでからバルドにあるとき、この顕現体験によってブッダに回帰するものである。
密教は、煩悩を知恵に変容する変化の道を用いるが、それは一種のマジックに過ぎないといえよう。煩悩はいや増しに増えていったとき、誰も止められない状態にまで発展する。個人的にはその人の外部や内部を損傷し、煩悩がカルマととも集団に向かえば、感染症や伝染病のような深刻な問題を引き起こす。それを解除するには、煩悩の特性をよく理解し、認識する必要がある。
正しい認識活動を知恵の眼、つまり、本当の知性というのであるが、人々はみな無知と煩悩によってすべてを写し出す鏡の境地が曇らされ、誤った認識と行為を行っている。そしてその心には煩悩が含まれているので、すべてのものを暗くし、正しい認識活動を妨害している。
自分の行っている行為がすべて本来の自分の清浄な境地と一片たりともズレがない生き方をしていないから現実が予期しない方向に向かうのだ。
ゾクチェンの教えは、心の寂静な側面と思考による動きが出る側面を本来の原初の境地であるリクパに統合するのである。煩悩を放棄したり、変化させることなく、あるがままに放置し、放任する。そうすれば道において立ち現れてきた煩悩も自然に浄化され空間に消えていく。煩悩が浄化しきれない場合は、何かの縁によってまた増殖し、違った形で顕現してくる。そのときの煩悩は、怒りが憎しみや憎悪に発展しているので、もはやだれも止めることができないくらいに成長している。
煩悩を無毒化し、知恵に変え、光に変えて空間に帰してあげる必要がある。一般の人々は意識はおろか口のレベルの脈管・ルン・ティクレすらも三毒の無知、怒り、貪りにまみれ、完全にブッタの清浄な顕現がみれないように身体の仕組みすら二元的な煩悩に支配されてしまっている。ならば身体は、抓ったら痛いようにすべて二元的なありように支配されそこから一歩も抜け出せないかのようにみえる。
しかし、煩悩は物質的なものではないのだ。煩悩のありようを完全に悟れば、それを克服する可能性も出てくる。
運命を変えようとしたり、今ある状況を突然かえたり、壊したり、拒絶してもなにひとつ変えることはできない。そのように人間は存在していないのだ。
まず自分を観察することだ。そしていまある現状から自らのリクパに辿り着く以外に方法はないだろう。朝目覚めたときの透明に輝いた意識こそ自らの最高のグル・サーマンタバドラの心の境地であり、それは誰もが持っているリクパの境地そのものなのだ。
その中に常にとどまるのがゾクチェンの修行の根本であり、無上の教えやブッタやグルを他に求めることではなく、みずからにすべてのありようが蓄蔵している。ただそれを純粋に素直に開くことが大切なのである。
「新春大斬り」のイベントもうすぐですね。煩悩と無知に塗れた身口意のそれぞれの次元を完全にぶった切って完全浄化し、虹の光の身口意に変容しますよ。